インタビュー
【9期生対談vol.1】「自身の作品とどう向き合う?」を考える 鼎談:清水笙(アーティスト)+関田重太郎(企画設計)+増田凌(エンジニア)

クマ財団9期生による、クロストークを行う本企画。第1回は「作品への向き合い方」をベーステーマに掲げ、清水笙(アーティスト)、関田重太郎(企画設計)、増田凌(エンジニア)の3名が互いの持ち寄った質問に答える形で意見を交わします。
聞き手:クマ財団事務局
執筆:小泉悠莉亜
クリエイター写真撮影:コムラマイ
9期生対談シリーズ一覧はこちら|https://kuma-foundation.org/news/13491/
———今回は「作品への向き合い方」を起点に対話をしていただきたい3名のアーティスト
に集まっていただきました。まずは読者のみなさまに、自身の活動を含めた自己紹介をお願いいたします。
清水:清水笙です。身の回りの事物や自然の事象に内在する「親密な記憶」に焦点を当て、時間や記憶の構造を示唆するようなインスタレーション作品をつくっています。使用するメディアに縛りは特にありません。直近の作品「tread」は、今の自分が考えていることがようやく形になったと実感できるものになりました。

清水の祖父の残したメモに書かれた一文“Water is Water, isn’t it ?”を起点とする作品「tread」。一個人及び家族史を超越した、普遍的な問いかけとして清水自身に沈殿したこのワーディングから「一人の生が終わっても、全体の循環は絶えずに続いて水が世界を循環するように、何度も再生され続けるかのような大きな時間の構造」を直観し、自身の手を離れて、鑑賞者と作品の関係性において、水のように循環して遠いところへ運ばれる感覚が生まれる。
関田:関田重太郎です。主にアートや建築の設計現場で、「企画設計」をしています。企画設計というのは僕の造語で、端的に言えば、地域の方々やアーティスト、職人と横断的に関わる際に、人と人との間で「翻訳」したり伴走したりする役回りだと捉えています。具体的に言えば、関係者の共通言語として図面を引くことが仕事ですが、プロジェクトごとの持ち回り方があることから「企画設計」と名乗るのがいちばんしっくりきています。

乗用茶刈機と、畳の和室を組み合わせた体験型作品「茶畑のちゃぶ台(関田重太郎+浅野ひかり)」。所沢市の名産である狭山茶の農園と協力し、茶畑の中を移動することができる和室を制作した。訪れた人に煎茶と茶菓子を振る舞いながら、ちゃぶ台を囲んで茶農家の話に耳を傾ける、茶畑を味わい尽くすような体験が生まれた。
増田:増田凌です。いわゆるデジタルファブリケーションを使って、特定の機能や美感を具現化するのが専門です。お二人と異なる点があるとするならば、活動の起点となった卒業論文「曲線に沿う3Dプリントジッパー」が、論文という特性上アカデミックな意味を伴うものである必要があったことかもしれません。当初はアカデミアにあったこの技術を、洋服や身障者向けのよだれ掛けなど実用性を備えたプロダクト制作に接続していきました。今ではアートワーク的なものを作ったり、ランプシェードを作ったり、ロボットみたいなものを作ったりと、技術を応用して自分が面白いと思うもの、かっこいいと思うもの、可愛いと思えるものを作っています。

歯の形を再設計し、曲線的な動きをするジッパーを開発。3Dプリントしたパーツを曲線ジッパーで事後組み立てすることで大きな作品を制作した。ジッパーの使用法を知っていれば誰でも簡単に組み立てられることも利点のひとつである。
———ありがとうございます。ここからは皆さんに持ち寄っていただいた質問を軸に展開します。まずは、「どこまでが自分の作品と言えるのか?(清水提案)」という問いから始めましょう。
清水:対談するメンバーが決まった時に思いついたのがこの質問でした。私も含めて、自分の作品と断言できるラインあるいはグラデーションを作るのが難しい3名だという共通点を感じましたので。これに関して、おふたりはなにか考えていることはありますか?

清水 笙《tread》2025
清水:たとえば私が先に紹介した作品「tread」の場合、制作のある過程で私と叔父が交わるタイミングがありました。それが「循環」の初手と言いますか、「流れはじめた」と私が実感する機会で。そこからさらに叔父と私、鑑賞者、さらにその先へと記憶が循環していく様相をつくっていけるのだとすると———別に私がいなくても成立するような流れが自然発生的に生まれる———となると、私にとって作品の境界がわからなくなる心地がします。
増田:僕は清水さんの作品「tread」の制作思想に通じる部分がある気がします。というのも、ご自身の個人史や家族史にとどまらない、多くの人の記憶や時間を巻き込んだ循環を作りたいという清水さんの衝動は、ある程度普遍的な形態の作品に着地すると考えているからです。先述の通り、僕は主に3Dプリンタを使って作品を作っていますが、つまるところデータがあれば僕じゃなくても同様のアウトプットは叶います。それは技術が普遍的なものである証明ですよね。ならば作家性———これが僕の仕事だと言えるのはどこからなのか?という疑問は自ずと生じます。もし仮に僕が3Dプリントに代わる新技術を発明しそれを使って作品制作を行えば、それは「自分の仕事」だと明言できるかもしれません。ですが実のところ、その線引きさえも難しいのではないかと迷うこともあります。

増田 凌《Whole-Zip》2025
関田:少し話はズレるかもしれませんが、質問を聞いて、クマ財団の面接の際に「あなたは作家らしさに蓋をしていませんか?」とコメントいただいたことを思い出しました。いわゆる「作家性」のテーマはついて回る悩みですよね。作家性を「自分らしさ」という言葉に言い換えて、研究室の先生にその正体を訊ねたら「普段全然そんなことは考えていないけれども、考えていなくても出てしまうものが作家性だ」と言われたことで、僕は腑に落ちた感覚があります。作家性というのは、つまり手癖なんだと。ややもすればコンプレックスとも言える手癖をどこまで愛せるのか。自分の関わる仕事範囲を考えると、僕の場合は全ての領域に関わりたいし、他人の領域にも「一緒にやらせてください」みたいなテンションで平気でずかずかと入っていっちゃうので……。より一層、自分の作品かどうかの境界が曖昧になる気がします。
増田:どなたかと協業する時点で純然たる棲み分けはできなくなるのかもしれませんね。ただし自分がいなければそのものがこの世に生まれなかった……そういう感覚があれば自分の作品と言える可能性もありそうです。今思いついた回答ですが。
———議論の余地はまだありそうですが、次の質問にうつります。「作品に使用するメディアや素材はどのように決定するのか?(増田)」。いかがでしょうか。
増田:たとえば清水さんは絵画、彫刻、鋳造など本当にいろんな手法にトライされていますが、採用するメディアはどのように決めるのかなと。先の話を聞くと過程重視のようですから、何を作るかよりどうやって作るかを考えた結果、自然な成り行きで作品が決定する順番なのかと想像したのですが。一方で関田さんは使用する素材が鉄やコンクリートなどなんらかの統一性がありそうなので、それは何に起因するのかを聞いてみたいです。
清水:自分の所属が油絵なので、その延長線上で採用していた身近なメディアは油絵でした。ただ自分の表現に何が必要か考えた際に、それは絵画ではなく鋳造やフィルム写真など、「型取り」と「複製」が軸になるメディアでした。「鋳造」は撮影された二次元の対象を三次元に立ち上げる手立てで、それを経て「複製」に繋げます。リサーチ過程で、対象の形態、スケールを拡大縮小させたりしながら、最終的に鑑賞者が見る際にどう感じるか、元の形と意味を想起できるかどうか、微調整を行なっています。それはもとあった物語をリサーチと制作の中で物質に読み替えていく翻訳作業のようなものだと思っています。そのようにして「複製」したものを、「反復」させる行為は、写真中に流れていた時間自体までも複製するように思います。
また、立体物(彫刻)になると、鑑賞者はその周囲を歩いて回るじゃないですか? そうすると、その行為自体にも時間が付随して、ただ正面から見るだけではなくて、その空間を回遊する時間が新たに創造されます。インスタレーションという形式は、こういった新しい時間軸をうまく表現に組み込むことができると感じています。
そうした二次元のイメージと三次元に立ち上がった物質、その中を歩いていく中で、また鑑賞者の中にも違う新しい体験が出来上がっていく……それが新しい記憶を作っていく……という体験のためにメディアと手法を選んでいる気がします。
増田:なるほど。メディアの決め方はリサーチ過程の集積次第なのかと勝手に解釈していたのですが、「時間の複製」というご自身の大きなテーマや鑑賞中の効果などと複合的に考えて調整されているんですね。
清水:そうですね。やっぱりリサーチインタビューの内容次第で、制作物のディティールが決定されるんですよね。コントラバスの形であれば肩部分を削ぎ落としてみようかなとか。それは「自分の身体に合わせて、前の奏者から引き受けた時よりもちょっと削って演奏しやすい形にかえている」などのインタビューでお伺いした話をピースにしています。そうした背景説明はしませんが、敢えて残します。自分の所作というか、手つきはリサーチの中で決まる感じですね。
増田:理解が深まった気がします。関田さんはどうですか。
関田:素材としては鉄を扱うことが多いですが、たとえば板厚が2.3mm、3.2mm、4.5mm、6mm、9mm、12mmとあるとして、自分の中では、それぞれの役割が自分の中に明確にあるんです。でもそれには正解はなくて、その「6mmの鉄板の重さ」みたいのを設計段階にCADをいじっているときに感じる、ようなものがあって。3Dプリントした後の素材感が、プリントする前から想像できているみたいな感覚は、増田くんもあるんじゃないかなと思うんですが。CADデータ上だと、ものの重さ、質感は情報でしかありません。ただ実際にそれを現実で具現化しようとすると、物理的な問題点がいろいろと発生する場合もあるので、素材に対する興味は尽きません。設計の段階でも、ただの線として捉えるというよりも、すごく明確に、現物を作る場面をありありと想像しながら設計しているので図式的な設計、ダイヤグラムで書かれたような設計というよりは、全て「もの」としての素材感を意識しているかなとは思います。

関田 重太郎《Z軸の引越し》2022
増田:なるほど。板厚に代表される微妙なパラメーターの違いで、全然異なる別個の素材としての想像を広げたりするんですね。素材単体ではなく、個体としての物質性のようなものを楽しんでいるかのような。
関田:そうですね。同じ鉄でも板厚で重さが全然違うんですよ。重さの話でいうと、クレーンを持ったことによる物理的に操作できる範囲の拡張とかも。例えば、茶刈機の作品は重量が500kgありますが、「0.5tなら吊って動かせるな」みたいな感覚が生まれます。
増田:面白いですね。
関田:動かせないと思ってるものの認識が変わるのが面白いです。建築って動かないものだけど、「もしかして動かせたら面白いんじゃない?」みたいな発想もあって。それによって面白い表現が生まれることもありそうな兆しを感じています。
———それでは最後の質問にうつります。「“アートは意味を発生させる装置である”という定義に対して同意ですか、反対ですか?(関田さん)」です。
関田:僕にとってはこの定義はものすごく違和感があって。今では明確に違うという立場をとっています。
清水:意味というか、解釈を見せる装置かなと思います。でもそれは私がそういう思想をもっているからなのかもしれませんが。自分が物事に対してどう解釈をしたかを見せる制作スタンスですから、アートはその側面が強いように思いますね。人の作品を鑑賞する時にも、個人の解釈をできるだけ読み解こうと試みています。
関田:実はこのアートの定義は、ある建築家が言っていた言葉なのですが……アートですら「意味を発生させる装置」、という理解可能な説明を試みるのが「建築家らしいなあ」と思ったりしていました。
清水:確かにそうですね。定義はそこまで必要じゃない気もします。
増田:正直僕はまだ全然よくわかってないです。ただ少なくとも僕が作るものを見た人が、なんらかの感想を抱いてほしい気持ちはあります。機能的な驚きなのか、僕が作品に込めた思いなのか、その内実は分かりませんが……。その意味では解釈してほしいですね。僕自身は、どなたかの作品を鑑賞する時、「なんでこういう描き方しているんだろう」とか、「なんでこういう作りになっているんだろう?」みたいなことを考えてしまいます。そこに納得できると、その作品のことをより深く理解できた気がして嬉しくなる———エンジニア的な思考かもしれませんが、そういう癖はありますね。
関田:技法や仕組みに目が行くのは、エンジニアっぽいですね。
増田:そうなんです。結局、解釈したくなっちゃうんです。ただ一般に言うアートがそうなのかは分かりません。
関田:僕にとってのアートの鑑賞は、「わかる/わからない」と、「面白い/面白くない」の二軸があるんですよね。だから作品のことは「わからない」けど「面白い」みたいなことが発生するんです。清水さんの作品とかはまさにそう。わからない、でも「面白いなぁ」みたいな。増田くんのは「わかる」し「面白い」んだよね。なんかすごい納得できるし、「うわ、すごい」と。
増田:なるほど、そこが別軸にあるんですね。
関田:ごく主観的な軸なんですが。
増田:自分はその感覚がまだ分化していない気がします。
清水:確かに、面白い面白くないっていう軸はありますね。私にとって「わからない」と言われることは割と普通。だからこそ分からないようにしておきます。
関田:わかってもらおうとしてないってことですか。
清水:意地悪をしたいわけではありませんが、「わからないっていうこともあるよね」と。「わからないっていうことを忘れないで」と思うんです。わからないなりに考えてもらうみたいなことが私の作品の鑑賞中には起こっていて。それはとても嬉しいです。何かはわからないけど「何かが在る」という確かさを感じ取ってくれているわけですから。そこに答えや意味は提示されていなくても、思考することはできるんです。
そうしたこともひっくるめて、問いかけである“アートは意味を発生させる装置である”かどうか、の定義は固定しなくても良いかと思いました。そうしたこともひっくるめて、問いかけである“アートは意味を発生させる装置である”かどうか、の定義は固定しなくても良いかと思いました。

———それぞれの議論はまだ続きそうですが、今回はここまでとさせてください。みなさんありがとうございました。
「KUMA EXHIBITION 2026」が2026年3月に開催決定!

クリエイター9期生が参加する大型成果発表展「KUMA EXHIBITION 2026」 が、2026年3月28日(土)・29日(日)に開催決定!東京の青山・スパイラルにて、アート、テクノロジー、音楽、建築など多様なジャンルの若手クリエイターが集う本展。新進気鋭のクリエイターたちによる作品が一堂に会する、刺激的な2日間をお届けします。