インタビュー
活動支援生インタビュー Vol.77 戸谷 太佑「固有性ではなく関係性から世界を認める」
クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。
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活動支援生インタビュー、はじめます!
Taisuke Toya|戸谷 太佑

世界を認知するための主観性に対する不思議や違和感の実験を、「自分自身のために」続ける戸谷太佑。あらゆる物事は固定されておらず、関係性の中に位置していると考え、同時に、哲学者・西田幾多郎が説いた「純粋経験」のあり方———後天的な学習による思考停止的なものの見方から逸脱し、それ以前の純粋な認知のあり方に立ち返る———を再提示する。自分の肩書きや作品名に対する考え、作品ではなく「装置」と呼ぶなど、作品の辺縁にまで及ぶ戸谷の認知に関する構造的類似を含めて話を聞いた。
取材・執筆:小泉悠莉亜
関係性のなかから見出されるもの
———戸谷さんのものの見方、認知の仕方が興味深くそこから話を広げます。まずはご自身の肩書きについてどのように考えていますか?
戸谷:自認としては、「芸術家」とも「美術家」とも思っていません。僕にとって制作とは知覚の条件を設計することです。肩書きに固有名詞がなければ「何をしている人か」がわからないので、便宜上「美術家」と名乗っている、それ以上でもそれ以下でもないんです。
展示物の形態から、50年代以降のミニマリズムの文脈で捉えられることは多いのですが、ミニマリズムの作家たちもまた、知覚や身体、空間との関係を重要な問題として扱っていました。その点では重なる部分もあると思います。
ただ、僕の場合は、単純な物体の提示そのものよりも、意味が固定される以前の状態や、物体と空間、前景と背景の関係が揺らぐ条件に関心があります。美術史については勉強していますが、その流れに自分を位置づけること自体を、制作の前提にしているわけではありません。
特定のテーマやメッセージを先に置くというより、知覚の条件そのものを設計する感覚に近いです。
制作の出発点はとても素朴で、僕自身がリアルな世界(空間)で感じてきた「不思議だな」という感覚です。それをもっと自分自身が掘り下げたくて、自分のために実験しているにすぎません。論文形式で発表することもできたかもしれませんが、実際にモノ化して、その空間内に入って知覚/認識してもらう方が早いし、伝わるだろうと考えたんです。

装置《untitled》
空間におけるテンポ感あるいはリズム感の緩急を創出する装置。展示会場に入って最初に見る装置でもあり、最後に見る装置でもあることから、これを起点にしたループ構造を思わせる仕掛けとしても機能する。
———昨今、言語化至上主義の言説が散見されますが、戸谷さんの場合には、かえって言葉での説明が難解になる事象を取り扱っていると。
戸谷:そうですね。何か難しいことが言いたいわけではなくて、特定の場所に身を置くとき、「外部からなにかがやってくるような感覚がありますよね」ということ言いたいんです。でもそれは言葉だけでは伝えにくい。
その根底にある「不思議だな」という違和感は、ホテルのロビーやパサージュなどのパブリックでもプライベートでもない空間や、都市に聳える巨大ビルなどに出会ったときに私は感じます。こうした場所では、空間/時間の捉え方がちょっと曖昧になって「外部」と接続してしまうような心地がする。それは見えている物体の配置、スケールと自分自身の関係性によって空間の知覚が揺らぐからだと考えています。
言い換えれば、物体がどこに配置されるかによって、背景として捉えていたものが前景として浮かび上がってきたり、見えていたものが見えなくなったりする。あるいは「図と地(Figure and Ground)」の関係が反転したりする。それは「空間」そのものがあらかじめ固定されたものとして存在するのではなく、僕たち人が「見る」ことを通じて、再構成されるものだからだと考えています。
———そうした物事の認知の仕方は、どのように育まれたのですか。
戸谷:ちょっとした違和感には、日常生活のなかでずっと出会ってきました。霊的なものやスピリチュアルなものではなくて、もっと単純なズレとして。
たとえば、出身地の長野ではコンビニの駐車場がすごく広いんです。車は一、二台しか停まっていないのに、「こんなに大きなスペースが本当に必要なのかな」と思う。一方で東京のコンビニは、あっても数台分しか停められなかったり、そもそも駐車場がなかったりする。
長野では「何を目的にしているのかがはっきりしない空間」への違和感がありましたし、東京では逆に、あらゆる空間と目的が過剰にロジカルに結びついていることに違和感がありました。東京に来たことで、もともとあった感覚がさらに増幅した気がします。

装置《untitled》
音楽家であり建築家でもあるクセナキスが建てたラ・トゥーレット修道院の窓割りの配置、構成を参照して制作した装置。物体を回遊するうちに、物体の視覚的要素から音楽的なリズムを感じとるかのような、「認知の互換性(聴覚と視覚の入れ替わり)」を探った。
———戸谷さんの言葉を参照すると、東京のような空間は、「対象と自分自身の関係性によって空間の知覚が揺らぐ」余地がなかったと言えるのでしょうか?
戸谷:そうですね。いわゆる日本的な「間」、「余白」は、見えていない部分と見えている部分の関係性によって成り立つ関係だと僕は考えています。全てが明示されず、一部が隠されたり省かれたりすることで、かえって全体が立ち上がる状態になる。屏風絵『洛中洛外図屏風(画:岩佐又兵衛)』はその最たる事例で、京都市街地の一部を雲や霞で描くことで、見る側に「その先」を想像する余地を残しています。そういう余地が東京には比較的少ないように感じます。まるで世界が画一されていくかのような感覚を覚えます。
まっさらな感覚で世界を眼差せないだろうか
———上京にあたっての目的は、美術を学ぶためではなかったと聞いています。
戸谷:もともとは公務員志望で、四年制大学に進学したんです。公務員って安定しているし、いいなと思って。ふつうの生活を送ろうと思って過ごしていたのですが、造形作家・岡崎乾二郎氏の作品や著書に触れて、洋裁の学校に転校しました。結局中途退学しましたがそこで得た技術でも生計を立てています。
———なぜ洋裁の道に?
戸谷:岡崎さんが洋服の型紙を造形的な要素として扱っていることを知って、「服のパターンって、こんなに面白いものなんだ」と思ったんです。そこから興味を持って、洋裁の学校に進みました。
それだけではなく、岡崎さんは美術に閉じず、さまざまな分野の知識を内包しながら一つの作品や世界の見方を立ち上げている。その関連性の豊かさに、「こんなにもいろんなものや事象がつながるのか」と感銘を受けました。
それまで漠然と感じていた、知覚する主体によって世界が固定されるのではなく、知覚している自分自身までも揺らぎ、身体スケールが変容してしまうような感覚が、東京に来て、岡崎さんの言葉と出会うことで、点と点がつながり、物体化し、空間化していったように思います。

Photo by Taisuke Toya
生活のなかで違和感を覚えた風景①
———岡崎氏は絵画、彫刻のみならず、建築や環境文化圏の計画、絵本、ロボット開発など幅広い領域に接続しました。氏に影響を受けた戸谷さんも、同様に複数の領域につながるネットワークを自然発生させているように見受けます。
戸谷:そうですね。ある音楽家の方からは「君の考えていることは、スティーブ・ライヒという現代音楽家の『フェイジング』という技法にすこし似ている」と言われたことがあります。自分の制作技法のひとつ「反復」———空間をずらすことで新たな認知を探求する———に繋がると僕自身思いましたし、建築的なもの、認知科学的なものなど、異なる知見やバックボーンの友人たちに支えられて装置から空間が立ち上がってくるようにも思います。
———今まさに言及されたように、ご自身の造形物を一貫して「作品」と呼ばず「装置」と呼び、また固有の作品名も掲げないのはなぜですか?
戸谷:これまでの話と重複する部分もあるのですが、制作物自体で完結するのではなく、「装置≒造形物」と「わたし」の関係性によって生まれる内部空間に価値があると考えているからです。僕にとって装置とは、物体そのものではなく、知覚のあり方や関係性を変化させるための条件です。つまり、意味を与えるためのものではなく、意味がどのように立ち上がるかを開くための構造だと考えています。
同様に、「装置」に名前をつけてしまうと、記号性や意味性が自然と付随し、その対象だけにフォーカスが集まってしまう。作品名によって、ある種のイメージが先に喚起されることも起こり得ます。名前がついた瞬間に、見る前に理解されてしまうんです。
僕は、記号そのものを排除したいわけではありません。記号は知覚や認識のなかでどうしても生まれてくるものだからです。むしろ避けたいのは、意味が早い段階で固定されてしまうことです。
だから、すべてを一律に Untitled とすることで、記号が特定の意味に収束することを少し遅らせ、知覚の余白を保とうとしています。装置それ自体には固有の価値があるというより、そこに置かれることで空間を変質させる触媒として機能することに意味があると思っています。

Photo by Taisuke Toya
生活のなかで違和感を覚えた風景②
———作品で語られない真意を、作品名から見出そうとする一般的な鑑賞態度を回避しようと。
戸谷:装置に対峙するときには、これまでに身につけてきたものの見方や知識を忘れてみてほしいんです。赤ちゃんの視点のように、ニュートラルに受け取っていただければと。その上で、リテラルな物体———文字通り、「そのもの」という意味における物体認知———ではなく、知覚した後に、頭の中で幾何学形態や空間経験を再構築してしまうとはどういうことか? ということに僕自身の興味関心はあるんです。そのあたりを掘り下げて、ネガティブスペースを起点にした装置づくりを今後はしていきたいですね。
———言い換えれば、哲学者・西田幾多郎が著書『善の研究』で唱えた「純粋経験」のような知覚体験を目指していると。
戸谷:思考以前の、知覚段階で「バンッ」と入ってくるような感覚にはすごく影響を受けていますね。禅の直接性のようなものにも惹かれます。何かを意味や概念として理解する前に、まずそのものに触れるような感覚ですね。
———その純粋経験を、誰よりもご自身で探求されていきたいというのが制作の大前提として横たわっているのですね。
戸谷:自分のために、自分に対して実験的につくり続けたい気持ちが強いです。だからこそ、本当に自分のなかで「これをやってみたい」と思えたタイミングで制作していければと思っています。
生活のために作るというよりは、まず自分のなかで必要な実験として制作している感覚に近いです。自己満足だと言われればそれまでかもしれませんが、作家というのは何か特別に崇高な存在ではなく、普通の人が、ただどうしてもやりたいことをやっているだけなのだと思います。
本当に腑に落ちたときに、少しずつ世界を感じ直していきたい。その営みによって、自分の人生が少しでも幸福なものになるなら、それで十分だと思っています。