インタビュー

活動支援生インタビュー Vol.65 丹羽 優太『それは日本画の「王道」、歴史の裏付けによるもの』

クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。

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活動支援生インタビュー、はじめます!


Yuta Niwa|丹羽 優太

©︎Yuju Chen

蛇や大山椒魚、鯰など、身近にいる「黒く大きないきもの」に厄災を投影し、自身のテーマとして描きつづけてきた日本画家・アーティストの丹羽優太。京都の禅寺・光明院に半永久的に飾られる23面の襖絵を手掛ける一方で、くるりのCDジャケットや「京都音楽博覧会2025」のアートワーク制作、ファッションブランドKEITA MARUYAMAの図案設計などの異業種とのコラボレーション、さらには陶芸、ソフトビニール人形、公園の遊具など日本画の範疇を軽々と飛び越えてゆく。紋切り型の日本画家のふるまいからは一線を画す丹羽は、なにを思い、どのように活動を展開しているのか。光明院に奉納された襖絵を切り口に、自身のモチーフや日本画家としての立ち位置について話を聞いた。

取材、執筆:小泉悠莉亜

禅と日常をむすぶものの中から

———2025年春、丹羽さんは京都にある光明院に23面の襖絵を奉納されました。制作期間にかかった3年間は同寺に住み込み、禅寺で過ごす春夏秋冬から作品への思索を巡らせたと伺っています。丹羽さんの活動を紐解くにあたって、まずはこの作品と、その制作プロセスを手掛かりに深掘りさせてください。

丹羽:はい、よろしくお願いいたします。

光明院の襖絵制作で強く意識したのは、特定の場所に展示される半永久所蔵作品のありかた、すなわち「光明院にとっていちばん良い、しっくりとくる作品とはなにか?」ということでした。光明院は、作庭家・重森三玲による禅庭『波心庭』を中心とした禅寺です。その場所性、空気感、訪問される客人の目的などをしっかりと捉えなければ、時間の経過と場所の力に耐えうる作品は生まれません。あるいは、仏教や禅、寺院との縁や馴染みの薄い自分の手癖に任せて作品を手がけた場合、表面的なものになるのではないかという懸念から、住職に住み込みでの制作を申し入れました。

禅庭『波心庭』を中心とする光明院

———禅寺の日常に内部から関わるなかで見出されたものはありましたか。

丹羽:住職が客人を案内する際の説明や、「昔と変わらず今もそんなことをするのか!」と驚く修行の話を聞いたり、住職と一緒に食卓を囲んだりするなかでの何気ない対話や時間の累積を経て、「禅の根底に流れているのは、未来や過去に捉われず、今という時間を大事にすることなのではないか」ということに思い至りました。ちゃんと日々の営みをこなすとも言いますか……。禅問答は、誰かが答えを教えてくれるわけではないので、あくまでも僕の解釈ですが。

仏教の宗派のなかでも、禅宗は特に面白く感じます。信じれば救われる、あるいは、敬虔な信者は死後に極楽浄土に行ける、などのわかりやすい救いはありません。むしろ現世を生きている間に自分自身が仏になることを目標にした宗教で、とても現実的。目の前の生活や営みがフォーカスされているこの思想が僕にはしっくりきましたし、地に足がついているように思われます。

———禅のエッセンスを丹羽さんなりに自らの作品に落とし込んだ襖絵も今回描かれました。

丹羽:たとえば『香厳智閑(きょうげんげきちく)』という禅にまつわるエピソードに着想を得て、ある襖絵の端に描いた竹林に小さな石を描きました。名の知れた賢い僧侶でありながらも、修行を終えたあともなかなか悟りきれず、山に籠って生活をしていた際に、箒で掃いた小石が竹に当たった音を聞いて悟りを得たという逸話にまつわるモチーフです。

この逸話からは、気づき(≒悟り)は、特別なことをしたから得られるわけではなく、身近な出来事が呼び水になりえると気付かされました。素敵な指南だと感じたので、襖絵に描きいれた次第です。

©︎Yuju Chen

「黒い大きないきもの」に託したのは、自然(じねん)の感覚

———丹羽さんの代表的なモチーフである、厄災を具現化した「黒く大きないきもの」も今回の襖絵には引き続き登場します。襖絵といえば、『来迎図』をはじめ救済を明示する有難いもの、客へのもてなしを意識したもの、あるいは自らの権威を示すものなどが主な表現です。これを踏まえると、丹羽さんの襖絵は特異な立ち位置をとる作品とも言えそうですが。

丹羽:たしかに僕が描くものはそういった類のものではありません。また作品の共通テーマに掲げる疫病や災害に関わるモチーフを襖絵に点在させていますが、厄災そのものを前面に押し出しているわけでは決してありません。

襖に描き出した「ナマズ」を、地震を起こし大火事をもたらす災厄の権化や悪者とするのは、人間の主観によるものです。起きた事件に対して、人は「大変だ、辛い」と感じます。それは至極当然の反応ですし、間違いではありません。けれども元凶とされるナマズ(仮にナマズが本当に地震を起こすのだとすれば)からすれば「別にただ、俺、動いただけだし」みたいな感じだと思うんです。

———まるで人が生きるために呼吸をするのと同じような感覚だったのだろうと。

丹羽:はい。さらに引いた目線で見ると、人が辛く感じる事象———地震や大火事など———も、大したことではないと捉えることもできるんです。地球規模で考えると。地球全体のごく一部が燃えただけで、しかも火事によって焼かれた大地から新たな命の肥やしとなり得る。すべては時代や国、人の捉え方ひとつなんです。

禅の考えとどう結びついているかはわかりませんが、僕としては、地球にいれば誰にでも起きえる出来事を、ただあるがままに襖に描き出しただけですし、これまでお伝えしてきた事象を、なんらかのいきものや動物に託して描いているだけなんです。

©︎Yuju Chen

———そうして描き出されるいきものの形態は、日本画における『百鬼夜行』や『瓢鮎図』のようなおかしみの系譜を踏襲されているようにも伺えます。

丹羽:日本画を学びはじめた当初は、疫病や災害をはじめ、どう考えても悲惨な状況下で描かれたユーモラスな妖怪の日本画に対して、「なぜこんな絵を世に発表できたのか、そして、人々はなぜそんな絵を買ったのだろう」と疑問を抱いてました。しかしこの問いに長らく向き合ううちに、現代よりも死が身近だった環境では、ひとりひとりが「死ぬ」事実を受け入れずにはやってられなかったのではないか、と思うようになったんです。だからこそネガティブな感情をユーモアに置き換えて、人生を乗りきってゆく工夫として、おかしみのある妖怪のモチーフが生まれたのだと。前向きさがすごくいいですよね。辛いこともしんどいこともしょうがないけれども、生き残った人はこの先も生きつづけなくてはいけない。そうした態度から学んだことも、影響されたことも大いにありますし、同様の類のものが現代にあってもいいのではないかと思っています。

———おかしみ、あるいはユーモアを感じる丹羽さんの作品は形態を選びません。ソフトビニール人形やアパレルブランドとのコラボレーション、音楽家のアートワーク制作、遊具制作など多岐に渡ります。日本画を主戦場としながらも、表現の幅を限定しないのはなぜですか。

丹羽:半生を通して学び、描いてきたことから、日本画が自分の主軸であることに違いありません。ですが、それは自分にとって表現手段のひとつでしかなく、世界に存在するいくつもの手法や手段を活かしながら、「自分はなにを表現したいのか?」をいつも考えています。あらゆるメディアミックスはその考えの延長線上で生まれました。二次元的な絵画では表現しきれない部分を立体ならば実現できるだとか、実体のあるものとして上に乗ったり遊んだりできたら楽しそうだなとか。

自分の主戦場じゃない制作物でのコラボレーションでは、どこか肩の力が抜ける感覚もあるんですよ。共同作業する異業種のプロフェッショナルに委ねられる部分もありますし、「遊ぶ」こともできる。結果的にその取り組みによって、自分自身の日本画の表現やあり方も拡張してくれるイメージさえあります。

個展「キメラ流行記」にて発表した虎狼鯰がモチーフのソフビ人形

アーティスト白濱亜嵐の1st ALBUM『curious』のために書き下ろしたアートワーク

———江戸時代に活躍した尾形光琳も、アウトプットや手法にこだわらない日本画家でした。彼は弟の尾形乾山とともに陶器作品を共作したほか、螺鈿硯箱などの工藝作品の制作にも精力的に取り組んだ史実があります。

丹羽:まさに。日本画一本の方も多くいらっしゃいますが、守備範囲を狭めることなく、服の裏地の図案を描いたり、戦争画を描いたりと日本画の先人たちもさまざまな分野に手を出していました。日本画に限らず、日本美術の面白さはまさにそういう点にあって、文字通り画家が人々の「手先」になっていたと言いますか、あらゆる局面でものづくりに関わった「生活に密着した存在」だったことです。お殿様レベルではなく、庶民レベルでも。

展示「ATAMI ART GRANT 2022」にて発表した、アパレルブランドKEITA MARUYAMとのコラボレーション作品

———傍目から見ると、仮に丹羽さんの存在が異端に見えたとしても、それは日本画の王道なのだと。実際、丹羽さんは技法材料学の第一人者である青木秀明氏に学び、材料学の研究をご自身でも掘り下げてこられました。光明院の襖絵に使用された墨は150年前に中国で作られているほか、紙もまた手漉きの越前和紙を使うなど、日本画の「守」を堅実に踏襲されています。

丹羽:古い墨を使えば良いということではありませんが、然るべきものを使うことでもちろん色も良くなりますし、劣化が抑えられる利点もあります。それこそ長谷川等伯の作品が400年経った今でも色褪せずに、僕たちが感動できる状態で保存されているのは、材料に対する知恵があったから。材料以外にも、図案の描き方やモチーフの選び方どれひとつとっても僕個人の趣味趣向ではなく、先人の知恵や日本画的ななんらかの裏付けに基づいています。

©︎Yuju Chen

———ただしく知ると、「日本画家」としてのふるまいの矛盾はないことはよくわかります。

丹羽:お話ししてきたとおり、僕もいろいろなことをやっているんですけど、だからといって邪道なことをしているつもりはありません。日本画の歴史からすれば全く変なことではないなと思っているんです。当時の人は当時のやりかたを最新のものとして確立させていったわけですし、僕も同じように、今すべきことをしているだけなんです。

僕がこんなことを言うのもおこがましい話ですが、僕よりも下の世代の日本画家たちにとって、その世代らしい何かを生み出すきっかけになる存在に仮になれるようであれば嬉しいですし、こうした輪をどんどん広げて、日本美術全体が「日本画は面白い!」と盛り上がっていけばこれ以上光栄なことはありません。

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