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活動支援生インタビュー Vol.66 成定 由香沙 極私と公の「フラクタル構造」から生まれるアーキテクト

クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。

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活動支援生インタビュー、はじめます!


Yukasa Narisada|成定 由香沙

自身の活動を簡潔に言い表すことは難しい、と成定は言う。アーティスト、建築家として活動し、制作してきた展示作品の内容は、本人が当事者として関与してこなかったものばかりである。香港と中国、イギリスの植民地—宗主国の関係(「強い歴史」を有する立場の国家が自国の歴史をどう省みるか?という問い)や、放射能汚染事故集団的トラウマが浮き彫りにする発端となったハンフォード・サイトを絡めた「建築の不可視性」などがその一例だ。これらのモチーフを扱う理由を、成定自身もうまく説明できないと言う。だが、セルフインタビューのように自身を掘り下げてゆくと、自身と社会との関係性をフラクタル構造のように捉える視座があることが見えてきた。それらの対話から彼女の世界に対する態度を紐解く。

取材、執筆:小泉悠莉亜

矛盾の上に立つもの

———成定さんは、アーティストであると同時に建築家としても活動されています。実用行為である建築・設計に対して、対極に置かれがちなアート行為をも一括してひとりの人間が担う。このアンビバレンスが、成定さんのアーティスト性を象徴するとともに活動の全体像を結びにくくさせるおかしみ、あるいは作家性と評されます。自らの活動について、ご自身ではどのように捉えていますか。

成定:そうですね。その矛盾によって、離れていく……興味を失う人もいれば、その矛盾から関心を寄せてくださる人もいるので、大事なポイントなのかなとは思うものの、私が何をしているかは、いつも、私自身にとっても難しいことなんです。作品そのものが難解に見える場合もありますし、私という人間の行いや活動を、私自身も理論立てて説明できるわけではないと言いますか……自分でも、「自分はなにをしているのか/なにをつくっているのか」を模索しつづけています。

Takuya Matsumi

———建築家のバックグラウンドをもちながらも、土台からひとつひとつ積みあげてゆく建築家的な手法とは異なる思考や活動一辺倒ではないと。そこに成定さんの活動を理解するためのエッセンスがありそうです。この前提を踏まえて、成定さんのこれまでの主な活動をクロニクル形式でご紹介いただけますか。

成定:はい。まずは大学の卒業制作「香港逆移植 映画的手法による香港集団的記憶の保存(2021)」からお話しさせていただきます。これは学生の卒業設計のほとんどがアンビルト(注1)であることをきっかけに、アンビルトだからこそ鑑賞者に思考を促すことができる性質に着目するようになって生まれた制作物です。

(注1)unbuiltのこと。実在しない建築物を総称してアンビルトと呼称するが、建築アカデミアにおいては、建てることを前提としないプロジェクトや作品を指すことが多い。それらは社会批評や思考実験の意味合いが強く、なんらかの理由で実現しなかったプロジェクトとは区別される。

与えられた課題を解決していく理系学部に在籍しながらも、自分のやりたいことをはじめて手掛ける機会を与えられた卒業設計で浮かんだテーマは「政治的なこと、あるいはその周縁」でした。​特に注目したのは、2021年当時激化していた香港の民主化運動と、占領国であったイギリス、中国との関係性です。ここから「強い歴史」を有する立場の国家がどのようにして自らの歴史を顧みることができるのか? という問いを立てました。このスタンスや興味は今も一貫して変わらず、大学院修了制作「To Any Future Form that Will Be Able to Present Itself as an Invisible —— 不可視の存在として現れるあらゆる将来のかたちのための(2024)」と、これを下地に「ひらく」ことをより意識して展開した大学院修了後の個展「Over My Head (2025)」にも引き継がれています。

Naoki Takehisa

Naoki Takehisa

私と社会は違うけれども同じもの、通じるもの

———直近の個展「Over My Head(直訳:自分の能力や理解を越えた問題を抱えて、お手上げ状態になること)」では、1998 年にワシントン州ハンフォード・サイトで起こった広範囲の放射能汚染事故集団的トラウマが浮き彫りにした「建築の不可視性」をきっかけにハンフォード・サイトがもつ大きな歴史を題材に掲げました。放射能や原発、あるいは、占領する/占領される関係性など政治的側面に絡むキーワードが建築作品に登場する事例は、特に日本ではあまり多くないように思われます。

成定:そうですね。建築家が言うところの「社会」には、政治的要素が含まれず、たとえば共同体のような、パブリックな側面と結びつく傾向があると私自身感じています。

クライアントがいるプロジェクトでは口憚られるシチュエーションもあるかと思いますが、それでも建築家自身がつくるものと、「世界」との距離が時折隔てられてしまうのはなぜなのか? という疑問をずっと抱いています。私にとって社会とは自分自身のフラクタル構造(≒ 相似形)なんです。だからこそ社会と個人は切り離されて考えられるものではないように感じます。

———フラクタル構造とは、ある全体像をいくつかの部分に分解すると、全体と同じ形が再現されていく構造のことです。成定さんの論法を踏まえると、社会と、社会の構成要因である個人は同じ形状(性質)だからこそ、世界から隔絶した立場でなにかを作る、あるいは構想することは成立しにくいのではないかと。

フラクタル構造の一例であるシダ。全体と部分が自己相似の形を持ち、拡大、縮小しても同様の形が現れる。

成定:私は、自分自身が社会に対して思うことや、逆に無関心なことも含めて、自分を起点にしながらも、できるだけ遠く、遠くへとどれだけボールを投げられるかをの基本姿勢にしているんです。なんというか、自分の興味がないものはこの世に存在しないという「存在の不在」を強める態度ではなく、ただ自分が無関心であるという認識も踏まえて、世界に対峙したいと思っています。

———成定さんが思う世界への違和感、疑問、理解のできなさのようなもの全てが、作品制作における通奏低音にあることがわかってきました。乱暴な言い回しですが、それらに対して「余りある使命感」としてその身に引き受けているようにも感じられます。香港にしても、ハンフォード・サイトにしても、成定さんは、直接的に被害を被った当事者ではないのですから。

成定:確かに、確かにそうですね。正義感みたいなもの、みんながもつ正義感とはおそらく少しずれた正義感を持っているように理解していて———生まれながらの私の特性でもあるのですが———それを一生懸命働かせて、「勝手な使命感」あるいは、自分でもうまく説明のできない「切実さ」をもとに制作に取り組むので、「なぜそういうことをするのか?」とよく聞かれます。「展示の内容は分かるけれども、成定さんがこの展示をする根源的な理由が分からない」と。その理由は私に「も」分からないともいえますし、私に「しか」分からないとも言えて……、オープンにできる理由、オープンにできるというか、オープンになる理由はないのかもしれません。

あまりにも広い私の世界を「ひらく」

———ではそのようなアティテュードで世界に対峙しつづける根底にあるものはなんなのでしょうか。

成定:自分の課題でもあり、同時に大事だと思っていることなのですが、人間としての自分の仕組みにすごく興味があるんですね。「なぜ自分はこう考えるのか」「どうしてこの振る舞いをするのか」といったようなことが。自己形成が完結するのは40代と言われるなかで、20代の自分はまだ精神的な面でも発達しきっていません。その揺らぎがすごく気になって、ずっとずっと考えてゆく。すると例えば人に対して恨めしいと思う感情の動きを拡大して解釈した先で、いわゆる現在のパレスチナ問題のような世界的な、大きな構造の問題におのずと接続する、と強く思うんです。

自分が感じる小さな要素が、自分を離れた世界の大きな問題に対しても、同じ言葉で説明できる。ですからトラウマをはじめ、嫌なこと、ちょっと忘れがたい傷ついた経験でさえも、それに対してどう立ち向かうかということは、大きな社会問題においてもフラクタル構造で再解釈、適用させることができるのではないか。

であるならば、自分の中で巻き起こることは、基本的には世界中のあらゆることに通じていく気がするんです。自分と母親、自分と恋人など、仲介するものが皆無の、1対1の状態までを自分の領域として、そこから考えたことを世界単位へと展開するというか……。その分、自分の世界とする領域があまりにも広くて……。

———「この展示を成定さんがする理由がわからない」という投げかけへの回答でもありますね。自分の世界とする領域があまりにも広い分、世界中の問題が成定さんの問題とも読み替えられる。その一方で、他者に説明して共感や理解を得られる考えかと言えばそうでもない。

成定:自分では、自分自身の力量を超えることはやっていないと思っているんです。つまり、自分ひとりでも「なんとかできる」という範囲から考え始めることを基本としていますから。

———その態度が前提にあると、鑑賞者の方々に知っていただくことができれば、プレゼンテーションしていることへの理解も自然と深まることにもなりそうです。

成定:展示でも、題材となる問題を直接的に明示したり、建築的な専門言語である図面などは一切含めることなく、「そうではない部分」から展示を見ていただけるように、「ひらく」ことを意識しています。

たとえば「Over My Head」では、私たちの頭上にいつでも広がる大空に見立てた青い布を壁面展示し、そこから自分よりはるかに大きいものを見上げる具体的な行為と、展示タイトルの意訳である「理解のできないことへの降参状態」が身体感覚として結びつくように構成を工夫しました。複雑なことを説明するのに、言葉は必要以上にいらないのだと「難しさ」を後ろに追いやる形式を模索したんです。

———ひらく、というのは。

成定:ハンフォード・サイトに関しては「見えないもの」、ひいては放射線など主題が内包する社会問題や具体的な課題を全て共有することが難しくとも、フラクタル構造のように、全く異なる事柄同士に類似点が見つけられると感じている、それを鑑賞者の方々へ差し出せるようにアプローチするという態度でしょうか。閉鎖的にしない、排他的にしない。

建築を考えることも、展示を考えることも、相手がいてのことです。どれだけ自分へのベクトルを強く強く向けていても、「ひらく」ことを意識し、相手のために、世界のためになにができだろうということが今、私の頭のほとんどを占めています。

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