インタビュー
活動支援生インタビュー Vol.67 寺澤 季恵 工藝的素材と私、その行き来から「生命」を造形する
クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。
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活動支援生インタビュー、はじめます!
Kie Terasawa|寺澤 季恵
2025年春、作家としてひとり立ちしたガラス彫刻作家の寺澤季恵。彼女にとってガラス彫刻作品とは、技術と想像力の双方が絡み合い成立するものである。しかしただ技術力を追求することに重きを置かない。作為的にエラーや異素材を組み込むことで生まれる有機的な感覚を大事にする。その感覚の延長には、自身の体とガラスを行き来するなかで感じられる「生命」に対する持論———美しいだけではない、グロテスクさを孕む———をはじめ、自身の内側からこみあげる世界や生活に対するまなざしが含まれている。
取材、執筆:小泉悠莉亜
技術力の代償
———寺澤さんは美大卒業後、金沢にある卯辰山工芸工房にて3年間の研修を経て2025年春、工房を構え、作家としてひとり立ちしました。なぜ卒業後すぐに作家活動を始めず、前述のようなプロセスを踏んだのか教えてください。
寺澤:成り行きまかせではありましたが、自然な流れで今に至ったと感じています。そもそも私にとって、学校を卒業してすぐにフリーで活動することはとても怖いことでした。その点、卯辰山工芸工房は金沢の優れた伝統工芸の継承発展と文化振興を図るための工芸の総合機関として設立されたため、若いアーティストを育てることに注力しており、仕事を受けながらも素材や作品研究をすることが許される環境だったことから、当時の私にはうってつけの環境だと思ったんです。
———作家準備のためのモラトリアムとも言えるような。
寺澤:はい、プロじゃないけれども、セミプロとは言ってもいいかなという状態であり、環境を整えていただきました。思うに工芸の世界はやっぱり技術がものを言います。人にはよりますが大学に通う数年間では技術が十二分に身につくとは言えませんし、アート的な想像力を深める研究も同様です。このふたつの要素の絡み合いによって「作家の作品」ができると考えていますが、それらを自分なりに研鑽するステップとして私にとっては必要な期間でした。
———工芸の世界によくある技術継承をベースにした師匠弟子制を経て作家として独立するためではなく、いち個人作家として活動するために必要な工程だったとも言えますか。
寺澤:そうですね……話はすこしズレるかもしれませんが、技術って自分の表現を増やすための手段だと思うんです。技術が伴ってはじめて至れる表現があり、その境地にたどり着いた時にはじめて「作品」と呼べるものが生まれて、作家としてもようやくスタートラインに立てる。でも同時にガラスの表現自体なんでもありだと思っているので、私自身はあまり技術面にこだわらないつもりでここまでやってきました。
難しいのですが、ただ技術力があればよいというものでもないんですよね……。これまでガラスに触れたことがない人がつくる作品の造形がすごく面白いということが往々にしてあるんです。私たちガラスに関わる人間が、はじめて吹いたガラスのカップをいつまでも手元に残している人が多いように。もう作れないんです、はじめての作品は。分厚くてすごく不恰好で、でもどこか愛着が湧くあの作品は、技術力が培われてしまった分、どんなに真似て作ろうとしても作れません。その当時は作品と認めるのも憚られる代物でしたが、現時点の私からすれば、宝物のような存在です。
———技術力によって失われてしまうものがあると。
寺澤:そうなんです。上達したことで、どこか人工的になってしまうと言うか、逆にうまくできていないんじゃないかと感じるようにさえなってきました。
いつのことかもう覚えていませんが、素材をただ扱うだけでは物足りないと思うようになったんです。そこから意図的にエラーを発生させる仕組みを制作プロセスに含めるようになりました。絶対にふたりでやらなくちゃいけないとされる工程を1人で行い意識的に負荷をかけてみたり、いつもとは違うアシスタントさんにお願いしてみたり。吹きガラスって、補助者にちょっとずつガラスを足してもらいながら吹くんですけれども、アシスタントさんの性格によってそのガラスの追加量に差が出るんです。毎回均一な人もいれば、大いに分量の差がある人もいる。それを逆手に取って作品の味にすると言いますか、固定化した技術力に対する変数にすると言いますか。過去に制作したパーツをちぎって作品に盛り込むこともあります。そうすることで、人間味を引き出すことは意識的に行なっていますね。
———ガラス作品には珍しく、異素材を作品に盛り込むのも同じ理由からでしょうか。
寺澤:そうですね。異素材を使うことに恐怖もないですし、抵抗もありません。
———人為的な操作を加えた一連の要素がケレン味にならないよう、全体調和する仕上がりになってゆくことについてなにか意識されていることはありますか。
寺澤:最終形態がまとまってこそ、とは考えています。でたらめに作るのではなく、手元にあるものを選んでひとまとまりに構成してゆくものの、そもそもの完成像が私の頭の中にあるわけでもないんです。ほぼ手癖と言いますか、テストの時に無限に円を描いて暇を潰す感覚やドローイングに近い感覚で。だからどこで作品を完成させるかは結構難しい問題なんです(笑)。作品の納期や締め切りのおかげで、制作を終わらせることができる。なんの制約もなく作品を作ることができるなら、一生手が止まらないかもしれませんし、どこまででも作品を拡張させていける気がします。
粒を集めて、「生命」とする
———まさに要素の集積を作品とする点が寺澤さんの作品の特徴です。作品群の造形になにかモチーフはあるのでしょうか。
寺澤:作品に対して直接的な影響を与えるモチーフはありませんが、梱包材のプチプチですとか皮膚の網目模様など日常のどこかからヒントを得ています。
———アウトプットされた作品は、木苺やジャックフルーツのように類似する個体がひとつのまとまりとして成立しますが、美味しそう、美しいといったポジティブな感情を想起させるだけにはとどまりません。「生生」シリーズはその代表例ですが、どこかグロテスクであり、自らの肥やしにするために自分以外のものから栄養を吸い取る「いきもののしたたかさ」のようなものを感じさせます。それは意図してのことでしょうか。
寺澤:はい。それは私の内側に元来あるものに起因している気がします。世界中で起きる事件や戦争などへの関心が人一倍強い自覚があって、それらに共通するのは人の死なんです。それを通じて、「生命の本質とはなにか?」を考えることがとても多くて。
ある時、猟師の友人が、撃ち殺した獲物を捌いた時に「内臓がすごくきれいだった」と発言したことにものすごく共感したんです。一般的な感覚からスタートすれば、視覚的にも本質的にもグロテスクで生々しいものだと受け取られるかもしれません。けれども私自身は、そうしたものにこそ生命を感じてしまうのです。
———死が連想されることで、逆説的に生を強く意識するということでしょうか。
寺澤:はい。生き物の中身———血や内臓、あるいは生き物をひらくという行為自体が死を連想させますし、これらの要素は、ときに世界で起きた事件や事故、そこに存在した死者に対する無神経さとして誤解されることがあるかもしれません。
けれども「生」の延長戦上には、常に「死」があります。朽ちてゆく姿や死を通じて見えてくる生命のあり方には、私たちになにかを深く考えさせる力があると信じています。「たしかに、そこに生きていた」という想像や物語、そこに伴う感動が、美しさとして私のなかに残るのかもしれません。
———興味深いのは、そうした寺澤さんの思いが鑑賞者には届いていなくてもいいと考えられている点です。
寺澤:作品について「どう見られたいか?」という観点は特になく、こう見て欲しいということも特にはありません。受け取り方を含め、作品のあり方や鑑賞者の感じ方に私はあえて介入したいとは思わないんです。
———では、寺澤さんの作品が「生命」を表現しているとされる点についても。
寺澤:実は私が最初に言ったことではありません。作品を見る方々からの視点を受けて、俯瞰してみた時に「そうかな?」と思いながら、輪郭をいただいたという形で。その全体像をいただくまで、自分がなにをつくっているのか探る段階だったのかもしれませんが……。
今でも「生命」を作るぞ、と意気込んでいるわけではなくて。だいたいガラスを吹くとうねうねと動いてそれ自体が不気味に見えますし、まるで意識があるように感じることがあるんです。しかも自分の呼気や手の延長線上に存在するって、それ自体若干の気持ち悪さをもよおすわけです。ただしそれを気持ち悪く思う私だって、その気持ち悪さを内包する「生き物」なわけですし、私と「生命」を内包するガラスの間を行き来しながら作品を作っている体感はなんとなくあります。
———作品になる以前のガラスにも生命の根源が感じられると。
寺澤:はい。ガラスの動き、表現のなかで感じるものはやっぱり「生命」でしたし、その運動の中で生まれた自然なかたちが作品になっているように思います。強調したいのは、確かに不気味に感じる造形だったとしても、ガラスであるからこそ美しくも見えるこの矛盾するような表裏一体があることです。
私は作品について「こうあるべき」とは語りませんが、その代わり、日々のなかでガラスと自分が存在することに意味があると思っています。大前提として、モノを作ることが好きで、ガラスを吹くことが好きですから。
そうして毎日ガラスを吹く行為自体が、連続的な祈りに近いとも思うんです。ただ無心で行う日常の反復行為というか。そうして吹いたガラスから生まれる「生命」の表情や、内から出るエネルギーの方向のようなものに触れるほど、やっぱり私にとっては、ガラスじゃないといけないなと思うんです。