インタビュー

活動支援生インタビュー Vol.68 遠藤 茜 「漆よ、永遠なれ。漆的な生活で生まれる健やかなおかしみとともに。」

クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。

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活動支援生インタビュー、はじめます!


Akane Endo|遠藤 茜

二項対立で語られやすい工芸とアートの土俵に立たされようとも「漆を用いて、工芸の領域を内側から拡張していく」と評される遠藤茜の漆作品たち。言葉の通り、遠藤の作品は従来、漆が背負ってきた伝統工芸品という重厚感や圧をかろやかに捲りあげ遊び心に満ち、工芸の領域を拡張する気配をまとう。一方で先達に学んだ「工芸」たる伝統技法に忠実に守り制作する。その絶妙な感覚によって生まれるのが遠藤の作品群である。遠藤はなぜそれができたのか。工芸に対する考え、自身の作品のインスピレーションと生活の関係性などについて、自然体の彼女に話を聞いた。

取材、執筆:小泉悠莉亜

愛すべきヘンテコさんにかこまれて

———高校時代は油画専攻だった遠藤さんが、工芸に転向した理由が興味深かったです。あらためて詳細を教えていただけますか。

遠藤:決め手となったのは……人なんです。漆は、人が面白かったんです。

———人ですか。

遠藤:はい、人です。なんかヘンテコな人が多かったんですよ。よくもわるくも大学の漆芸科の人たちは空気を読まないというか、でもその感じが嫌じゃなくて。ヘンテコだったのは在籍中の上下の代だけだったと卒業後に発覚したのはオマケ話ですが(笑)。

Photo by Akane Endo

Photo by Akane Endo

遠藤:それはさておき、漆という異常な素材に関わる作り手にはやっぱり異色な人が多い気がします。大学卒業後も引き続き漆に関わり続けたからこそ、実感を伴ってそう言えます。その異色さというのは、漆文化の衰退に伴う関係人口の減少を受けて、現状を辛抱して意地を張っている感じでもない。なんと言えばいいか、理由はわからないけれども漆に妙に惹かれてしまう気質の、なんか変な人たちだなって印象なんです。

———なにが変なのか、深掘りしたいところです。

遠藤:なんでしょう……。なんか全体的に「わざわざ」って感じなんです。

———わざわざ?

遠藤:はい。漆って伝統工芸のなかでも特に「伝統工芸の極み」な気がしていて。現代の日常生活ではほとんどエンカウントしないわけですよね。あっても正月の霽れの席くらいじゃないでしょうか。

そんな具合なので、漆芸の教材ですら絶版していることがあるんです。教科書なのに!って思いますし、そんなのを教科書にするなよって感じなんですけど(笑)。それをみんなで手分けして探して、どうにか中古書店のオンラインサイトで見つけ出そうと奮闘するのですが、そういうわけで全員が教科書を持っているわけじゃないんですよね。

———なるほど。それは、現代人の感覚からすると不便ですね。漆を取り巻く環境が整備されていないというか、その前提から自分たちで構築しなくてはいけないような。

遠藤:そうなんですが、その不便さは魅力のひとつでもあります。自分たちで探すから、思いがけない出会いもあって。

———それがむしろよいと。

遠藤:漆の魅力って一言では語れなくて。すこし脱線するかもしれないのですが、とある雑誌の表紙に「偉いぞ、漆……万象を映す美と力………」と書かれていたのを発見した時には思わず唸りました。フォントといい、色使いといい、言葉遣いといい、最高だなって。これを見たとき、私は「ああ、漆をやっていてよかったな……」としみじみしたんです。

———なるほど。うまく言語化できませんが、遠藤さんもまた「漆のヘンテコな人」の要素がありそうですね(笑)。

遠藤:そうかもしれません(笑)。

工芸とアートの境界線を探る

———さてご自身の活動について「漆特有の価値観を利用する」と言及しています。これについて詳しく教えていただけますか。

遠藤:漆って言葉ひとつとっても独特な雰囲気があると思うんです。たとえば「漆を使って作品を作っている」との発言から、聞き手が思い浮かべる漆のイメージはかなり限定的———カチッとかしこまって見える雰囲気、黒くてツヤツヤしている作品やうつわ状の作品、伝統工芸品的など———で、そのイメージの狭さこそが漆特有の価値観だと捉えています。

そこであえて私はそれを逆手に取って、「これのどこが漆なんだ?」っていう作品を作ってみようと。ものすごく柔らかい素材に漆を塗布してみたり、真っ黒な仕上がりを避けてみたり、脱力感のあるゆるさを取り入れてみたり。すると漆に対する世間的な先入観と作品との間にギャップが生まれる。そのギャップによって作品の魅力が際立つように思います。

———漆と顔料だけで作ったシートを漆で貼りつける「うるしシール」、手づくりの丸椅子のぬいぐるみを漆でコーティングした「not enough」シリーズなどはその一例ですね。「反・漆」ではなく「非・漆」と言いますか、漆じゃなさそうに見えるという点で、漆の素材特性に揺さぶりをかける効果がありそうです。

遠藤:うれしいです。超アバンギャルドにしたいわけでもないんです。漆がもつ本来的なイメージから100%真逆なものを目指すのはむしろ簡単すぎて、かえってチープさが立ってしまう。目指すのは、漆を使いながらも地に足のついたライトなトーン。だからこそ漆芸の技法のベースは変えずに、作品に対する考え方などを半歩くらいずらしてみようと模索しています。

———遠藤さんの作品は、「工芸か?アートか?」という議論を呼ぶこともありますね。

遠藤:そうですね。手前味噌になってしまうかもしれませんが、「遠藤さんのやっていることは工芸から外れていないけれども、大幅にはみ出したことをやらずに、内側から工芸の領域を拡張しくかのような姿勢があってよいですよね」と言っていただいたことがあります。実際自分でも、意識してやっていることですので、それが見ている人に伝わっていることはすごいありがたいなと思います。

———工芸の領域から逸脱する/しないの線引きはどこにあるのでしょうか。

遠藤:みなさん、どう考えていらっしゃるんでしょうね、本当に。私もあんまり考えないようにしてきたところがありますが……自分なりに腹落ちした考え方は「先達から学んだ技法を大幅に変えないものを工芸とする」ということ。技法が破綻すると工芸を離れてアバンギャルドで、アートっぽくなっていくように感じます。

だいたい工芸の技術って、複製可能であるところに魅力がある。人間国宝などはまた別の話ですが。「自分じゃなくてもできること」を先達から教わり、後続につなげてゆく。そうして「誰でも作れる」ってことが私にとっては、工芸における大事な要素だと思いますし、私自身も大事にしていることですね。自分だけが作れる作品ってことにはあんまり重きをおいていないのも、工芸的な価値観と地続きの感覚のように思います。

———だからこそ型破りな造形であることやアイディアのユニークネスなど「アート」的な要素があれども、遠藤さんの作品は工芸の枠組みの中で語られ得るのですね。

遠藤:コンセプチュアルなものもアートも大好きなんですが、工芸が絶対にそちら側にいけないという意味での強い憧れと関心があるようにも思います。

———というのは。

遠藤:憧れているからと言って、それをそのまま自分のものにするのは果たして良いことなのか?との思いがあるんです。現代アートへの憧れをいざ工芸の領域に引き入れた時、これまで自分が語ってきた工芸へのこだわりのようなものが崩れてしまうんじゃないかと。

たとえば「not enough」シリーズは、手作りで布を縫い、中綿を詰めた素地に漆を塗りましたが、この一連の作業はこれまでお伝えしてきた通り、私じゃなくても技術を習得した人ならば誰でもできることなんです。ただそこに作り手である私の視点が入ることで、誰にも模倣できないものになる。技法の複製に忠実だからこそ私の作品は工芸という立場から揺らがないけれども、起点となるアイディアは誰にも模倣できないものになっていて———アイディアは複製不可能と言う意味でアートに類似しますが——100%アートにはならないし、ならなくていいと思っています。

———結果的に漆という素材特性だけをダイレクトに感じたり、考えさせる第一歩になっていますよね。漆との向き合い方を刷新させる効果を生まれています。

遠藤:それが伝わるといちばん嬉しいです。これだけいろんなことができる素材———埋めたり、補強したり、平滑にしたり、接着したり、塗装したり、塗ったり、修復したり———にも関わらず、ただ表面に塗るっていう一般的な漆仕事は塗装業に近い。漆があることで成立する表現というものをプレゼンテーションしていけると面白いなと思うんです。

漆作家は生活上手

———では遠藤さんの作品を工芸でありながらアート的に「錯覚させる」要素、アイディアの源泉にも迫ってみたいです。たとえば「うるしシール」では、昔ながらの値札やお買い上げテープ、特売品シール、見本シールなどに目をつけ、「マ皿」はたまたまメルカリで見つけた皿を模倣されました。目の付け所にユニークさを感じますが、生活のなかにあるささやかなおかしみやチャーミングなエッセンスを見つけるのが得意ですか?

遠藤:私にとって、日常生活こそがいちばん面白いことなんです。日々いろんな人や作品に会ったり、だいすきな散歩の道のりでよそ様の庭先に陳列されたパーソナルな趣味を見たりいずれにしても人の手が入ったものに対して、面白センサーがよく働く気がします。

———遠藤さんのセンサーにひっかかったものコレクションがあると聞きました。

遠藤:私、本当にお土産ものとか、総合リサイクル店「セカンドストリート」とかが大好きなんです。なんだろう、視覚的に面白いものも好きなんですけど、存在意義を考えた時に「?」となるわけのわからなさみたいなものに惹かれるんです。

たとえばこれ、漆器を模したプラスチックの蓋付き汁椀なんですけれども、蓋にシールが貼ってあるんです。というか貼ってあって剥がせると思って買ったんです。でも剥がれなくて(笑)。どういうことかというと、プリントされているんですね。剥がしたいのに剥がせない謎のシールが一生ひっついてくる漆器。「(シールに記載された)ブランドアピールすごいな!」って。裏面ならまだわかりますけれども、一番目につく場所に貼ってあるんです。

———製作者の意図が気になりますね。

遠藤:本当に(笑)。でもこのわけのわからなさとか大好きなんです。こういうのを見つけるとすごく楽しいですし、「作品に活かそう!」って思います。

———その感覚が、制作と地続きな気がしますね。

遠藤:なんなら全部繋がっていますね。生活も制作も。漆を扱っているからか、もともとそうだったのかはわからないんですが、生活の態度も漆の可塑性に支えられている気がします。作品に対しての扱いが特別慎重じゃないのも、「壊れても大丈夫。欠けても割れても直せるから」という感覚が根底にあるから。だから作品を触ったりひっくり返してもらっても全然構いませんし、それが面白くて、すごく健康的だとも思うんです。

私たちは何度だって壊れたものを修復できる。その態度はケア的な側面もありますし、私自身のメンタルまで何度も救ってきたように思います。

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