インタビュー
活動支援生インタビュー Vol.71 村本 剛毅「メディアを詠う」
クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。
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活動支援生インタビュー、はじめます!
Goki Muramoto|村本 剛毅
閉じた目に光ファイバーを繋ぎ、瞼越しに映像を投影する光学装置〈Imagraph (series)〉、テレビやラジオ、映写機を想起させるデバイスを被り、知覚の形態としての映画的モンタージュを再構築する〈Lived Montage / Le montage vécu (series)〉など、アーティストの村本剛毅はこの世に存在しなかったメディアをいくつも生み出してきた。それらはヒトの普遍的な認知や知覚、コミュニケーションの前提を揺さぶる特性を有すると同時に、それ自体が芸術作品である。村本はなぜこうした媒体をつくり続けるのか。幼少期の原体験から、作家としてメディアを創造する責任まで網羅的に話を聞いた。
取材、執筆:小泉悠莉亜
“X see Y”を思索しつづけて
———プロフィールでは、「独自の媒体/メディアを発明・彫刻するという実践を通して、知覚やコミュニケーション、移動などを含む『媒介』について研究している」とご自身の活動を説明されています。この一文を踏まえて、媒体、媒介についてどのように考えを発展させてきたのか教えてください。
村本:はい、よろしくお願いいたします。
振り返ると、知覚の形態としての映画的モンタージュを再構築するシリーズ〈Lived Montage (series)〉のきっかけにもなった遊びがあります。小学校の授業中に退屈を感じて「お絵描き」をした経験がある方は少なからずいらっしゃると思うのですが……私もよく自分の席から見えた景色を絵に描いていました。しかしそれにも飽きてくる時のために、私は別のお絵描きの遊び方も編み出しました。それは教室の中にいる誰か———往々にして、それは私が興味を寄せている相手です———を標的にし、その人から見える景色を描くというものです。私は景色を覚えたり空間を想像したりするのが得意な子どもで、それが高じてか、あまりにも「その人」から見た景色———まるで無線電波で受信したかのような明晰さで見える———を描くことができたがために、この遊びにはかなり夢中になりました。描く際には、私とその人と景色との間に境界がない感覚さえ覚えたものです。

Training Wheels
村本:ただしその人自身と、その人が見ている景色を見比べながら描くことは難しく、トレースできるのは、同じ空間において同じ対象を同時に観察しているヒト同士の視点だけなのだと後に悟ります。そこから人間には、世界、とりわけ「もの」を介した「他者への通路」があると気がつきました。そのような感覚は、やがて「何が/何を/見ているのか」という〈Lived Montage〉のひとつの問いでもある興味へと繋がっていきます。これはひとつの例ですが、ともかく私は幼少期から「見る」ことへの確固たる興味がありました。
———私たちは乳児時代に世界を知覚する面白さや興味関心を一通り経て、目に見えることを当たり前のものとして生活するようになるわけですが、村本さんは視覚的な認知に対して、一般的と言われる閾値を超えて強い関心を寄せていたのですね。
村本:死ぬことが怖い人は多いですよね。私もとてつもなく恐ろしく感じていました。あれはいつか死が自分に訪れること自体が怖いだけではなく、死ということがわからなすぎて怖いわけです。見ることへの怖さは、そのような強迫観念に良く似た強烈な情緒でした。
———子供ながらの好奇心や一過性の興味ではなく、村本少年にとっては、他人には計り知れないほどの切実さを伴うものだったと。
村本:はい。「見る」ことを考えずには、生きてゆくことさえままならないような感じでした。
「お絵描き」をする時、時折「誰」が見るのかは次第にどうでもよくなって、見るということだけが起きているような瞬間が訪れます。それと同時に「私」のようなものはリアリティを持って確かにここにある。すると私の命や、目が「見る」という現象において「どのように位置付けられているのか」ということまで気になって仕方ありませんでした。

Lived Montage / Le montage vécu (series)
Photo: Kai Fukubayashi
———〈Lived Montage〉は、幼少期から現在まで通底する村本さんの興味関心ごとのひとつを具現化した作品だと言えますが、認識論や存在論、メディア論など複数の学術的見地に支えられている点が特筆すべき点です。どのようなプロセスで制作を行なっているのでしょうか。
村本:〈Lived Montage〉に限らず、作品の構想はポンと瞬間的に出てきて、その段階で細部まで固まっていることが多いです。ですからそれを実際に制作する際には、構想を形にするための「労働する」という感覚さえあります。
習作のようなものが一旦完成して、一通り自分で経験し終えると、「(この作品において)私は何をしているのか?」を理解するために、半ば無意識的に猛烈に文献にあたるタイミングが発生します。もちろん自分ひとりで思索する時間も長いですが、自分が何をしたのか仄めかしてくれる議論がないか探るのです。
———興味深いです。作品を支える直観が、然るべき文脈から説明し得る構造になっているという事実が。
村本:先ほど、〈Lived Montage〉は「世界、とりわけものを介した他者への経路」への興味に関係しているとお話ししました。これは、現象学において日本語には「間主観性」あるいは「相互主観性」、英語では“Intersubjective”と呼ばれる概念を巡って研究されています。これは文字通り、観点に言えば主観性と客観性を繋ぐ概念です。一見主観的なパースペクティブにのみ基づいて生きているように見える我々にとって、いかにしてこの林檎や世界が、私の生やパースペクティブを前提としないようなものとして現れるのか、客観性を獲得するのか。他者の主観性というものが我々にどう現れるのか、それに先立つ自分の主観性というものなどあり得るのだろうか。心理学や社会学で散発的に使われていたこの言葉を哲学的な概念として練り上げたフッサールは、例えばデカルト的省察という講義の後半で、日常的な素朴な経験を観察しながらこの間主観的な意識のあり方を描いていきますが、この実験的な言語的実践はまさに私が〈Lived Montage〉のプロトタイプを長時間体験しながら考えたり試したりしている部分に重なるものでした。
しかもいくつかの点においては彼らの方が真剣に考えていて、私が思いつかなかった表現や考えに対して「なるほど」と思う。ただしその一方ですこし悔しくもなります(笑)。そうした気持ちで文献にあたること自体が不毛なことですけれども、もし彼らがご存命でしたら作品をお見せしてみたかったです。きっと喜ぶはずです。

Photo: Kohei Omachi (W)
———異能の数学者ラマヌジャンの存在が村本さんと重なります。彼は4000もの公式や定理などを直観するも、「ナマギーリ女神が舌に数式を書いてくれる」と自らの着想の源について言及していました。彼の場合は自身での証明が叶わず、後世の数学者たちが必死になって解明に努めているわけですが。
村本:喋っていてすごくお恥ずかしく、おこがましいとは存じているのですが、私は本当に、本当に世界に興味があるんですよ。興味がある分、めちゃくちゃに考えていますし、見たり聞いたり触ったりしているんです。ですから「私が思いついて、かつ本気で作りたいと思った作品がこの世界に対して重要ではないわけがない」という半ば妄信にも似た確信があります。
メディアは語り、詠うのか
———手掛ける作品群は個別にテーマ性をもちながらも、全体では「媒体」という形式をとります。村本さんの考える「媒体」とはなんですか。
村本:端的に、媒介する主体です。その意味では、私は媒体という言葉に対してとても広い定義を持っています。しかし重要なのは、媒体こそがアートワーク、あるいは美的判断の対象である点です。もちろんアートワークにおけるメディウムの重要性は、近年だとモダニズム以降の芸術やメディア・アートという言葉の周縁部で活発に指摘されてきましたが、ここまでラディカルな主張は意外となく、今まさに私が研究として取り組む領域でもあります。
さらに言えば、メディア論の大家であるマクルーハンが残した言葉 “The medium is the message(メディアはメッセージである)”を私は真に受けているんです。本当にメディア(≒媒体)がメッセージになり得るならば、そのメッセージをもって「詩」を作ることができるはずだと。それはメディアによって運ばれる「詩」とは異なり、メディアそのものがメッセージとなり、そのメッセージがそれである「詩」です。その次元において、私は雄弁でありたいのです。

Imagraph (series)
Photo: Kai Fukubayashi
———メディアそのものがメッセージ性をもつ。その言説を強固にしようと、メディアそれ自体をつくり続けているのですね。
村本:〈Lived Montage (series)〉、〈Imagraph (series)〉など私が作った装置(≒メディア)は、時に鑑賞者が卒倒しかけるほど強い体験をもたらすので、その体験になんらかの意図を託すことで強烈なメッセージを受け取り得る可能性はありますし、実験中には意図せぬ事柄が起こることもあります。しかしそれ自体は、重要であっても本命ではありません。あくまでもメディアそれ自体がもつメッセージ性という水平からなにかを語りたいと思っています。
———興味深いことに、村本さんが求めるその立場は、各作品を体験した後の鑑賞者の態度に現れているようにも思われます。
村本:そうですね、体験をされた方々の「言葉が変になる」印象があります。形式的な感想が出てきにくいと言いますか……。展覧会などに親しくない方や幼い子どもが、例えばぽろりと大哲学者が言及したのと同様の意味や構造を持った発言をすることがあるんです。
メディウムの作者が担う責任
———知識がなくともメディアの性質に直通してしまうセンセーショナルな作品体験は、ある側面から見ると、人の根源的な部分に直接影響を与え得るメディアだと捉えることもできます。
村本:媒体をつくることが私の最も素直な制作スタイルですが、「この媒体がどういった媒体なのか?」、すなわち先ほどの意味での「メッセージ」を私自身がしっかり認識して表現する責任があります。アピアランスにメディアの構造や過去のメディアとの関係を表象させたり、体験自体がそのメディアの固有性を認識しやすいように作り込んだりする理由はまさに先述の理由にほかなりません。
一見私の作り出した小さな小さなメディアへの“overfitting”な努力に見えるかもしれませんが、それはただのメディアではなく、そのメディアを理解することが他のメディアやメディエーション(mediation)一般について理解することにもなり得る特殊なメディアなのです。

Lived Montage / Le montage vécu (series)
Photo: Kai Fukubayashi
村本:たとえばImagraphでは、瞼を通して閉じた眼に映像を投影するメディアを理解することで、「見るものと、見せるものがどのような自由をもっているのか?」というイメージの媒介についてのより大きな問題が表沙汰になります。通常メディアは、自分がどういうメディアかを隠蔽する性質があり———だからこそメディア論という学問が必要なわけですが———、それは制作者が悪者だという言説でもなく、潜在的な性質であることを理解し、発明者である作家が立ち向かうべき責任です。これは、社会の中に多様なメディアが———その多くは社会的にマジョリティである思想や制度や需要に基づいて———生成され、それに組み込まれながら世界や他者との関係が変形していくなかで、アーティストが、オルタナティブな認識に基づいて、メディアそのものをアートワークとして生み出す意義でもあります。
———とある過去作はそのセンセーショナルなアピアランスから、特定の症例を有する方々によるクレームやストーキング行為など、一線を画した行為に及ぶケースが発生しました。それほど苛烈なメッセージ性をそのメディウムが有したという逆説的な証明になったわけですが。
村本:現在はアイディアや作品が完成した後も、メディウムに付随する倫理的な問題に対して納得ができるまで公開はしないと決めています。現在最終調整中の作品も公開すれば話題を呼ぶかもしれませんが、その実、危険性を孕むアイディアであること、簡単に応用される可能性があるため、公開を待ち慎重に検証を重ねています。
アーティストとしてうまくやっていくためには、着想してすぐに、軽快に作品を発表できるのが良いかもしれません。ですがお伝えしてきた通り、そのあたりは慎重な態度で問題提起と同時に作品公開ができるよう努めたいと考えています。
———〈Lived Montage (series)〉の最新形態である〈Nudes Moving on a Staircase〉もまたこれまでとは違う角度から、メディアに伴う責任を考えさせられる作品になりました。
村本:はい。裸体を扱うこと、そしてカメラと「見ること」をめぐるマイクロポリティクスに対する責任を引き受けることでもあります。エドワード・マイブリッジのこのモチーフは美術史にとって重要なモチーフですし、率直に言うと踏み切ることができないアイデアでしたが、企画に賛同してくれるパフォーマーの方に偶然出会い、それをきっかけに動き出しました。

Imagraph (series)
Photo: Kai Fukubayashi
———パフォーマーのうちひとりは、村本さん自身が引き受けています。
村本: 冒頭でお話しした「何が/何を/見ているのか」と関連してお話しすると、「何を」側に人間の身体をもってくることは、林檎を選ぶことや車輪を選ぶこととは違った特別な意味があります。
メルロ・ポンティは「身体が見るものであるということは、それが見えるものであるということと別のことを言っているのではない」と言い、見るものと見られるものはともに「もつもの」として「肉」という概念を提出します。
この作品の際立った状況は、林檎を含めた見られるものと見るものもともに具体であり肉であるという日常的には忘れ去られた事実を強制的に突きつけ、ある種の鏡のように〈Lived Montage〉という架空の知覚形態の反射を発生させます。〈Lived Montage〉の「見る」参加者は、裸体を見ることで、今自分が行なっている新たな「見る」によって自分の身体が見られることがいかなることかを「体験」し、もしかしたらそうして初めて、その「見る」を獲得した身体になると言い得るとも言えます。そこで私がパフォーマーを担うのはもちろん最低限の責任でもあり、自然な流れでもありました。ただし正直に言えば当然怖さもあります。

Selfie as Dance
Photo: Kai Fukubayashi
———その恐怖も飲み込んで、見られることを引き受ける。メディアを世に放つものの責任をしっかりと考えているからこその配役だと理解します。そうして大事に育てた〈Nudes Moving on a Staircase〉は2025秋に一般公開予定です。会期後、村本さんがどのように考えを深めたのか、ぜひ教えてください。
村本:ぜひ。今日はありがとうございました。