インタビュー

活動支援生インタビュー Vol.74 久保田 徹 『他者に起きた事件は、私に起こり得る「全て」』

クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。

活動支援生インタビューシリーズについての記事はこちらから。
活動支援生インタビュー、はじめます!


Toru Kubota|久保田 徹

ロヒンギャ難民の撮影及びドキュメンタリー制作を大学在学中から始め、2022年7月にミャンマーにて国軍に111日間拘束された久保田徹。“恩赦”後も、拘束以前と変わらず彼の地に渡りカメラを回しつづける久保田は、ドキュメンタリーが有する「個人の物語」の強度を信じている。それは時代や国を超えて万人に届く、普遍的な力をも宿す可能性さえ孕む。そうしたドキュメンタリーに対する久保田ならではの眼差しを訊ねるとともに、新たに立ち上げたミャンマー人のクリエイターを応援するためのプラットフォーム「Docu Athan」の可能性について話を聞いた。

取材・執筆:小泉悠莉亜

———「ドキュメンタリーの効能とは、“他者の全ては、自分に起きたことかもしれない”と考えられること」。久保田さんのこの一言は、ご自身が撮るドキュメンタリーを理解する背骨になる言葉です。この発言を切り口にインタビューを始めますね。

久保田:はい、よろしくおねがいします。

———前述の発言の意図を噛み砕くと、紛争、貧困をはじめ世界中で起こっている悲惨な事象は、国籍を問わず、この記事の読者にも十分に起こり得る、という主張がまずひとつめにあり、さらには被写体や舞台から視聴者の生活が物理的・精神的に離れていても、映像内で起きていることを「自分ごと」として仮定する仕掛けとしてドキュメンタリーは作用する可能性を内包すること。これらふたつのメッセージを包含した発言かと解釈しています。

久保田:おっしゃる通りです。僕自身が、かつての経験から、“あったかもしれない自分”をふと想像することがあります。その中でも、もしミャンマーで拘束されたまま(2022年7月にミャンマー最大の都市ヤンゴンに入り、国軍への抗議デモ撮影を行った際、久保田さんは扇動罪等の罪で10年の禁固刑を宣告される)だったら……という思いは特に強く心に残っています。外国人という免罪符のもと釈放されましたが、パラレルワールドの僕は、2025年現在まだ刑期3年目で、あと7年間の獄中生活が待ち受けています。その“僕”と、今ここで話をしている“僕”は表裏一体です。一方で、僕と同じように拘束された結果、非情な判決が下されたミャンマー人の同志もいます。仮に僕が彼の地に生まれていたら、彼らの境遇は僕の人生だったかもしれません。そう思えば、あらゆる物事は紙一重であり、世界中の誰もが「あり得たかもしれない自分」だと置き換えて考えられますし、その補助線になるのがドキュメンタリーの効能ではないかと思うんです。

映像作品『境界の抵抗者たち 〜ミャンマーを追われた映像作家の記録〜』(監督・久保田徹)より。「革命ビデオクリエイター」として活動する映像作家の、軍事クーデターにまつわる語り。相方であるカメラマンは地雷で足が吹き飛び、義足をつけてカメラを回す。

 

個人的な物語が語るもの

———“ありえたかもしれない事象”の類例として、映像作品『境界の抵抗者たち』に登場するディレクターHという人物の見せ方を例に引きます。彼女はミャンマー政府に抗うジャーナリストとして登場しますが、同時に二児の母親であり、日本へ出稼ぎに出た旦那をもつ“嫁”でもある、ひとりの女性です。監督・編集を務めた久保田さんは、彼女の多面的な姿を視聴者にありのまま差し出しました。作品によっては、ドキュメンタリー的な主題を強調するためにカットされそうなシーケンスですが、本作ではむしろ意図的にそれらを組み込んでいます。この見せ方は、「ドキュメンタリー」という言葉が有するシビアさから、すこし逸脱しているようにも感じたのですが。

久保田:僕が思うに、特に日本では「ドキュメンタリー」はジャーナリスティックありきだと定義されている気がします。それは正しい認識ではありません。本来的な「ドキュメンタリー」には、アカデミー賞を受賞するような映画的な手法で撮られた映像から調査報道的な映像、ジャーナリズム寄りの映像までかなりのバリエーションがあります。それぞれ異なる効能があるわけですが、なかでも僕の撮る作品には、いわゆる「新しい事実」、要は強いニュース性は含んでいません。

『境界の抵抗者たち』で取り上げた内容は、2024年にNHK BSスペシャルで放送されたものなので比較的最近の映像と情報を含みますが、それはテレビのフォーマットに合わせてチューニングしただけで、登場人物に共通する「ミャンマーから逃れた人たちが、タイとの国境付近で生きながらえている」ことはそこまで目新しい情報ではないんです。日本人全員が知っているかは別として、目新しいニュースと言えるものではありません。それでもこの地で、政府と戦う人ひとりひとりの暮らしが変わらずに続けられている現状を伝えることの大事さってあると思うんです。言葉にすれば陳腐でおもしろさに欠けるかもしれませんが、その実存性や世界観を、鑑賞者に肌感をもって感じていただく。そのためのドキュメンタリーの効能を僕は信じているのかもしれません。

映像作品『境界の抵抗者たち 〜ミャンマーを追われた映像作家の記録〜』(監督・久保田徹)より。タイに家族で亡命した後も祖国でジャーナリスト活動を続ける女性。二児の母、日本で出稼ぎをする夫との関係における妻としての等身大の姿をも本作では捉えている。

———事件性や事実を取り上げるドキュメンタリーが「神の目線」をもって俯瞰的かつ客観的に編集されるのに対して、久保田さんのアプローチは、「ムシの目」、つまり主観的で、当座を生きる個人個人の目線から、出来事を見つめようとしているようにも感じます。

久保田:そうかもしれません。ある意味では、まるで彫刻のように、ひとりの人物を多面的に捉えることで「個人的な物語」をつくることが、ドキュメンタリーの役割だと思っているんです。どちらかというと、その方向から人に働きかけたい。そう思うのは、「情報の力」をそこまで信じていないからかもしれません。情報が広まることで、世の中が大きく変革する可能性を本気にしていない。自分自身が情報に疎いという前提もありますが、それ以上に、この世の普遍的なもの、その一点を信じるしかないし、追い求めるしかないなという持論があるんです。

映像作品『境界の抵抗者たち 〜ミャンマーを追われた映像作家の記録〜』(監督・久保田徹)より。ミャンマー軍を脱退後、かつての仲間に向けて投稿を呼びかける番組を配信するチームの一員。当局に素性が知られており、身柄を拘束されれば命はないほど危ない境遇にいながらも訴えを止めない。

———「普遍的なもの」というのは、小さくとも、強度のあるレジスタンスのような個人や、その態度のことでしょうか。『境界の抵抗者たち』に登場したディレクターHをはじめ、自作ラップで戦いに向かう自分たちを鼓舞する、ジャングルで研鑽を積む反政府軍の戦士たちのような。

久保田:なんでしょうか……。僕がドキュメンタリーを撮る理由が「弱きものの救済のために映像を撮っている」だと思われがちなのですが、実のところ、僕自身が心動かされるのは、逆境に立ち向かう人、自分の中でなにかを乗り越えようとする人、あるいはそれを解放しようとする人。総括すると、反骨精神を感じさせるもの。つまるところ「個人の物語」なんです。ミャンマーだけでなく世界中で、これまでも、これからも人為的な過ちは繰り返されるでしょうし、日本も例外ではありません。———大きな物語とも言い換えられるこの事象に対する「個人の物語」は、それを超克する可能性をもっていると僕は信じているんです。人間が過ちを犯し続けるのと同様に、人間の本質は変わりません。その立場に立って、普遍的な要素のなかから映像をつくりたいんだと思います。

Docu Athan ——— ドキュメンタリーはすべての人に必要なのか?

———至極個人的な感想で恐縮ですが、久保田さんのドキュメンタリー作品は、「ご飯を食べながら見る」ことができたんです。シビアな場面もあるのですが、立脚するポイントが個人だからか、読後感がネガティブ一辺倒ではない。このあたりが新たな映像体験でした。

久保田:そうですか。辛くて全然見られなかったという声もあって、人それぞれの部分もあるのですが、少なくとも僕は撮影中も編集中も時々笑い声をあげたりしてます。視聴する態度は誰かに強いられるものではないと強く思いますが、なんとなく「他人と自分のあわい」くらいの感覚で見ると、ドキュメンタリーの本懐に近づけるような気がします。

———個人の物語にフォーカスしているからこそ、個人のレベル感で捉えて、どうしようもないほど大きな事象を受け取り過ぎないという感覚とも言えるのでしょうか。

久保田:そうですね。それをもって自分でなにかできることをしようと考えてみたり、「自分だったらどうするか」と考える思考実験の材料にしてもらったりする糧になれば。立ち上げたミャンマー人のクリエイターを支援するためのオンラインプラットフォーム・Docu Athanに最近来てくれたインターン生も、ドキュメンタリー作品を見たことがきっかけだと言っていました。

Docu Athan Squareにて、ミャンマーの弾圧から逃れたクリエイターにカメラの使い方を実施。

———撮影者という立場を超えて、Docu Athanという新たなプラットフォームを立ち上げたのはなぜなのでしょうか。

久保田:もともと勢いで始めてしまったところもあるのですが、現地の作り手をサポートしたい気持ちがあったんですよね。現地のフィルムクリエイター・ジャーナリスト志望者に向けて映像制作のワークショップをしたり、ジャーナリズムを教えたり、パートナーシップを結んでいる「国境なき記者団」をはじめ複数のプロジェクトへカメラ機材の無償貸し出しも行っています。

その上で、今はDocu Athanの門戸を叩く全ての人にドキュメンタリーが果たして本当に必要なのか?という問題に直面しています。ドキュメンタリー映像ひとつで何がどう変革されるかはわからないですし、志望者である彼ら彼女らは、今まさに何かを変えないといけない差し迫った状況にいる人たちです。これまで僕が話してきたのは「アートとしてのドキュメンタリー」の側面が強くて、革命真っ只中にいるミャンマーの人々にとっては、それよりも現状を変えるための作品や、カウンタープロパガンダ要素を孕む映像が求められているはず。半ば当事者でもあり、半ば部外者でもある僕のような「間にいる人間」として、僕は彼ら彼女らの作品に対してどこまで口を出せるものかと逡巡します。提言的な制作であれば、その判断に基づくアドバイスをしたり、国外の人々や現状に通じていない視聴者にとって伝わりにくい内容のレベル調整をすることはできたりしますが、まず制作者たち本人が「何を届けたいのか」を理解しないと難しいこともあって、そのあたりがチャレンジングだなと思いますね。映像自体はバラエティーに富んでいてもいいですし、皆が皆僕と同じようなドキュメンタリーを目指すべきだとは思っていないので、あくまでも選択肢のひとつとして知ってもらえればよいかなと。

2025秋に台北(台湾)で開催されたピッチコンテスト「台湾クリエイティブコンテンツフェスタ(TCCF)」での一幕。制作予定の作品アイディアを、予告動画と併せてスピーチプレゼンし出資者を募る本コンテストにて、久保田さんは最優秀賞「TAICCA×CNC AWARD」を受賞した。

———では現場に即した形で、現在進行形で姿を変えていくような組織運営を今後も続けられるのでしょうか。

久保田:組織としての基盤はもうすこし強化したいところです。事務所がちゃんと存続できるように、プロジェクトひとつひとつをサステナブルに取り組んでいければ。あるいは内戦の戦況に伴って、僕たちの事務所自体もタイからミャンマーに移るという物理的な変化もありそうです。抵抗勢力が国土の半分以上を支配して、あと2年で内乱を終わらせると宣言していますが、そうかと思えば、現政府を中国とロシアが手厚くバックアップし始めたので潮目がまた変わりそうな気配です。いずれにせよ、ミャンマーの人々の制作を支援する活動は続けていきたいですし、日本との繋がりを太くする仕組みを構築できればと考えています。

ご質問は下記のフォームより
お問い合わせください。

奨学金
【第10期生】募集中

募集期間 2026.3.4まで