インタビュー

【9期生対談vol.4】「作品と作家の距離感」を考える 対談:川村智基(劇作家/演出家) + 川上さわ(映画監督)

クマ財団9期生による、ランダムなクロストークを行う本企画。第4回は「作品と作家の距離感」をベーステーマに掲げ、川村智基(劇作家/演出家)川上さわ(映画監督)の2名が互いの持ち寄った質問に答える形で意見を交わします。

聞き手:クマ財団事務局
執筆:小泉悠莉亜
クリエイター写真撮影:コムラマイ

9期生対談シリーズ一覧はこちら|https://kuma-foundation.org/news/13491/


 

———今回は「作品と作家の距離感」を起点に対話をしていただきたい2名のアーティストに集まっていただきました。まずは読者のみなさまに、自身の活動を含めた自己紹介をお願いいたします。

川村:舞台芸術に携わっています、川村智基です。2021年に旗揚げした劇団「餓鬼の断食」を運営しています。旗揚げ後3〜4年ほどはひたすら口語劇———「わろた」や「メロつく」などのスラングをつかう、舞台上で経過する時間と観客の体験が完全に一致する「一幕芝居」を作っていたのですが、最近は、「超現代口語劇」、すなわち俳優の動きに伴う微細な“震え”から発展した身体表現を極大化してダンス的な要素に接続させています。

餓鬼の断食vol.5『DOGHOUSE』2025 撮影:松本尚大
2025年12月に公開された新作『DOGHOUSE』では、現代口語劇と身体性の接続を探る集大成に相当する作品。「土地」と「救い」を巡る、本群青悲喜劇はこれまでの実践を統合する長編作品として位置づけられる。公演の記録映像を川上さわが監督した(配信はこちら)。

川上:映画を撮ったり、監督したり、最近はカメラマンも始めていろんなことに手を出している川上さわです。最初は物語のある劇映画ばかり作っていましたが、途中から実験映画にも興味がわいてきて、今はその二本立てでやっています。実験映画のなかでも、“日記映画”が特に好きで、自分で撮ったり、人から集めたり、ホームビデオみたいな映像を上映したりもしています。劇映画の方では、ストーリーテリングのやり方をちょっと広げようと、実験映画の手法を混ぜながら毎回違う作り方を試しているところです。近頃では映画を作るだけじゃなくて、上映会を企画したり、配給や宣伝まで自分で動くことも増えてきました。

———ここからはおふたりに持ち寄っていただいた質問を軸に展開します。まずは「メディアとしての映画の長所と、それに取り組む作家としての自覚について教えてください(川村さん)」です。

川村:ご存知の通り、僕は演劇をやっているんですが、演劇ってほんまに“会”そのものなんですよね。人が集まって、その場に実演者もスタッフも全員揃わないと成立しません。一方の映画は、作家の身体性や俳優の存在感が削ぎ落ちたり、逆に失われたりする場合もあります。それらを対比して「演劇は俳優のもの、映画は監督のもの」と言われることもありますが、そのあたり川上さんはどう考えているのかなと。

川上:映画はまず機械を通すという事実がとんでもないですよね。映画だと定義が広すぎるので、劇映画に絞ると……。

川村:どこからどこまでが劇映画ですか?

川上:曖昧な区分なのではっきりと分けるのは難しいですが、物語がある、ストーリーがあるものでしょうか。何事にも物語を見出そうと思えば見出せますが、「物語を紡ごう」という意思を持って作られたものを「劇映画」とひとまず定義しますね。繰り返しではありますが、機械(=カメラ)を通すことが映画にとってはとても大事で、それによって私たちはあらゆるものを「切断する」ことができるようになり、モンタージュ(編集)によって「切断したもの」———首だけのシーンの後に、手だけを映すことで意味を付与するようなことも可能にします。それが映画の最たる強みかなと。さらに「見れないものが見える」も映画の特性ですよね。簡単に言うと、人の目は指向性があるから見たいものだけを見ますが、カメラは、レンズに映るもの全てを余すことなく捉えるので、人間が見ることのできない小さなものまで見ることができ、さらにそれを人間の知覚でまなざしを編み直すことで「新たな知覚」のようなものが生まれるんじゃないかと。その「新たな知覚」を映画館などのリアルの場に存在させるということは、その「新たな知覚」を観客全員で目撃することだとも思うんです。

川村:なるほど。

川上:その上で、それに対する態度というか自覚に関しては……。私、他のインタビューでも同じような発言をしているんですが、時々幻覚が見えるんですね。だから自分の目で見るものよりも頭の中の風景や感じたことなどの……、私にとっては「別の現実」が存在するかのような認識があるんです。そういう世界を表すのに映画はすごく長けていると思いますし。質問返しみたいになっちゃいますが、今の質問の主語を「演劇」に代えるとどうですか?演劇はどこが強みだと思いますか?

川村:そうですよね。まさに今執筆している脚本で息詰まっていることもあり、なにか答えがもらえないかなと思って質問したので……(笑)。
おそらくこれは2パターンありそうです。ひとつはいわゆる劇映画に近い、物語や流れがはっきりあるタイプの演劇の場合。この手の舞台芸術全般に対して強く思うのは、観客の反応――笑うとか、泣くとか、息を飲むとか、逆に退屈そうにするとか――そういう“目撃する側の身体の反応”が表現者に作用することはかなり珍しい。その前提を踏まえると、観客の方にとっての鑑賞の喜びは「垣間見る」ことにあるように思いますね。全て設計された演劇行為にも関わらず、役者が役や舞台に感情移入した瞬間に「あ、見ちゃった」となる、あの類のものです。本来的には見てはいけないものを目撃してしまったという背徳感と罪悪感、それから単純な鑑賞の喜びが一緒になって立ち上がるのが、このタイプの演劇の面白さであり長所かなと思いますね。

川村 智基《STUDY|修飾を歓迎する環境←→拒否する身体》2025
撮影:©トモカネアヤカ/提供:豊岡演劇祭実行委員会

川村:もうひとつは、最近始めたダンス作品『STUDY|修飾を歓迎する環境←→拒否する身体』みたいな、かなり実験的なやつ。これは、一見すると何が起こっているのか分かりにくくて、もし「分かった!」って言われたら「ほんまに?」って疑いたくなるやつです(笑)。こっちのパターンであれば、膨大なエネルギーにただ押しつぶされる感じが、観客の喜びにつながるんじゃないかなと。感覚的には音楽ライブに近いです。強度のある現象が立ち上がって、それをただ目撃する、あるいは「させられる」。しかもここには「自分が大きな声を出したら壊れそう」みたいな、観客との共犯関係が構造として組み込まれている。その緊張感の中で初めて生きてくる強さのようなものがあると思います。

———ありがとうございます。ひと区切りついたところで次の質問です。「作家の人柄・人格を公の場でどのようにコントロール(ブランディング)していますか?(川上さん)」。いかがでしょうか。

川上:私もどちらかと言うと、相談に近い質問ですが(笑)。そもそも私にとって、川村さんという人物は本当に面白い。みんな思っていることだと思うんですけど言わないから、あらためてここで言うんですが、面白すぎる人なんです。エッセイを書かせても間違いなく傑作だろうし、当然演劇面における実力者でもある。どちらかと言うと私自身も「面白い人間が面白い作品を作っている」という語りをされることが多くて。作品単体ではなく作家も付随して見られること、その見え方や見せる匙加減についてどう調整していこうかとか、そういうことを川村さんはどう考えているのかなと。自分自身と作品の距離感というか、それこそ日常と創作の関係性というか、人生を切り売りしたくないけど「切り売りしたくもある」みたいな、いろんなものの折り合いをどう考えているのかを聞いてみたいなと。

川村:いやあ、すごくわかります。僕の場合、クマ財団のクリエイター奨学金の採択を受けてから、作品が急激に僕の個人から離れていく印象があって———それは意識的に行っていることでもあるんですけど———だからもってこいの質問です。振り返るとクマ財団の採択以前は、僕や僕の周りの人物のことを脚本にしていたんですが、それってつまり余裕がなくてもできる行為なんです。余裕があれば、僕の体から5センチぐらい遠い範疇のことは書けるはずなんだという気持ちも当時からありました。で、そこで助成金を受けて余裕が生まれたから、その「5センチ」をどう広げていこうかの試行錯誤をまさに今、模索しているところですと。なぜこの話をしたかと言うと、結局この「5センチ」の源には、自分がいるわけです。そこからは逃れられない。つまり自分の身体性から逃げることのできないジレンマが、僕は自分の書く作品に対してすごくあるんです。

川上:自分自身から離れたいと思いますか?

川村:いや、離れたい気持ちもないんですが。ただ今の個人的なとんでもなく強い願望と問題意識としては「この俳優が何を言ったら観客は打ち震えるか」を考えるための原点———言語化以前の「ゾクゾク」を置換するときに———を、自分自身を切り売りできない状態で再考できるようになりたいんですね。ちなみに舞台『《Fusion,〈フュージョン、〉》』を作った時は切り売りしようと決心したけど、その切り売りの仕方が面白くなかった気がする。残尿感みたいな感じがあった。

川上:表現の急転直下がすごくて笑っちゃいました。私はその逆かもしれません。表現がアレですが、電車の中でめっちゃゲロを吐き散らかしたいのに、世間様には得体の知れないものが「ゴッ」て出て、「ゴッて出されても困る!」みたいな感じになるというか。伝わりますかね?(笑) 映画『散文、ただしルール』の時は、私の「ゴッ」こと内的世界を、内的世界のまま外に出すみたいなことがしたかったし、できたと思うんですけど、それは私の切り売りではなく、周りの方々をこっち(=内的世界)に引っ張り込むみたいな意味合いだったんですよね。

川村:その感覚はめちゃくちゃ映画的ですよね。つまり自分から「ゴッ」て出せちゃうみたいなところ。僕の場合、セックスピストルズのガレージロックみたいに血まみれになりながら歌いたいと思っても、実際に演じるのは俳優という違いがあって……。

川上:川村さんの欲求を叶える場がないんですね。難しい。

川村:ですし、俳優に、客席から踊り出て全裸で頭を打ちつけることを課す必要もないというか、それはナンセンスだとも思っています。逆にそういう嗜好のある作家同士でクリエーションする時にはエゴを取っ払って、それを含めた可能性、想定の中でできる喜びも残されているのかなと。まあ、いずれにせよ演劇で「ゴッ」は結構難しいんですよね。

川上:確かに。

川村:回り回って質問の答えに戻ると、この質問は「作品性と人間性を同一視されるのが嫌だ」みたいな川上さんの気持ちが根本に横たわっているかと思うのですが、そうだとすると、僕はロビーで死ぬほどはしゃぐことによって防いでいます。

川上:待ってください、どういうことですか(笑)。

川村:例えばめちゃくちゃバイオレンスな作品を作ったとしても、作演出家が爽やかな笑顔で愛想を振りまけば、観客は困惑するんですよね。そこで作品性イコール人間性だと捉われることは避けられているんじゃないかなと思います。演劇が映画と違うのは、そこですよね。舞台、ロビー、客席、受付、行き道や帰り道などの複数のレイヤーが緩衝帯として存在するので、イメージを払拭する機会が割とある。あと僕の場合は身長が割と高くて体がゴツい分、身体的な記号がマキシムっていうのもありますよね。それによって許される感があると言いますか。たまに作品性と人間性が一致していると思われることもありますが、でもそれを苦に感じたことはなかったですね。

川上:なるほど。私も苦とまでは感じていなかったのですが、まだ自分の中で整理しきれないところだったので聞けてよかったです。ですし、ロビーの存在はいいなと思いました。純粋に。

川村:映画だと、観客に直接監督は会えないですもんね。その分余計にプロモーションの段階で「映画監督の川上さわ」というレイヤーが演劇以上に強くなるのかもしれないですね。

川上:映画監督のアイドル化みたいなのはあるような気もしますし、一人で逃げきれるものではないですが、できるだけ逃げていきたいですね(笑)。

———それぞれの議論はまだ続きそうですが、今回はここまでとさせてください。みなさんありがとうございました。
 


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