インタビュー
活動支援生インタビュー Vol.76 花形 槙 『自らを「規定する世界」につま先で立ち、もう片足で捻り転じて、正気を保つ』
クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。
活動支援生インタビューシリーズについての記事はこちらから。
活動支援生インタビュー、はじめます!
Shin Hanagata|花形 槙

「技術を<使う>のではなく、技術に<なる>。この現実世界(マン・マシンシステム)のはざまで揺らぎ続ける境界的存在について」と副題を添えた公開実験『エルゴノミクス胚・プロトセル』は、一昨年2024年の東京芸術祭で4日間にわたって上演された花形槙らによるパフォーミングアートである。ここで例示する技術とは、具体的に「椅子」を指し、花形ら数名のパフォーマーは観衆の衆目を前に、椅子に<座る>人間から、次第に椅子に<なる>。その変容を“捻転”という独自言語で表現する花形に、公演後の体感、“捻転”に関わる思索について話を聞いた。
取材・執筆:小泉悠莉亜
“捻転”の瞬間に救済がある

Video by Ueno Takahiro, AI-generated by Shin Hanagata
———公開実験『エルゴノミクス胚・プロトセル』に同席した観客からは、「椅子になれない自分を自覚してしまった」、「何を見せられたのかを言語化できないほど壮絶なものを目撃させられてしまった」など様々な反応がありました。全ての実験を終えられた今、本作を率いた花形さんはどのように振り返りますか。
花形:ホッとしている傍ら「また生活が始まってしまった」という感覚があります。ある種の特異点を生み出そうとしてきた数ヶ月を経て、そのリアリティから放り出されてしまったような感じもあって。
———特異点というのは。
花形:パフォーマンス中に訪れる「今、なにか凄いことが起きている」という瞬間のことですね。自分が今まさに変わる———“捻転”しているというような。そういう瞬間を迎えることは僕にとっての救いになっています。
———パフォーマンスにおける特異点が「救い」だとすれば、「また生活が始まってしまった」という言葉の重みが変わって聞こえてきます。
花形:生活していると「文化」に縛られつづけているかのようなリアリティを感じるんです。そこからどうやって抜け出そうかを常に考えている。アーティストであれば当たり前に考えていることかもしれませんが、この「逸脱したい感覚/欲望」自体が本来の人間じゃないか? と僕自身も考えています。
photo by Keita Otsuka
———今回は、椅子に<なる>ことを目指されたわけですが、決して万人が支持するわけではない超個人的な欲望に立脚している点に“捻転”の妙があるのでしょうか。他者には理解されない欲望こそ、極まった情念や“捻転”に繋がる可能性を孕むと想像します。
花形:椅子に<なる>、椅子に<座る>という役割を複数人で行うことに関して、たとえばマゾヒズムやSMプレイの一種として解釈される方がいるかもしれませんが、それは僕の意図からはズレています。これらは既存の文化内でエコシステム———その分野におけるヒエラルキーなど———が成立しています。プレイを享受する人の大半は、真面目な労働者で、労働の息抜きやご褒美としてプレイを楽しんでいる。ということは、プレイは、この「世界」で確固とした立ち位置を確立していると言えるんです。
他方“捻転”はある種の露出的欲望かもしれませんが、いわゆる露出狂よりもさらに極まっていると言いますか、人間の基本欲求に端を発するものからは得られない、自分の中で到達してしまったオリジナルな欲望を行使して「世界」から飛び出してしまった、みたいな感覚に近い。そうなると捻転する瞬間に「俺は椅子になるために今まで学校に通って、挨拶をして、一生懸命にお金を稼いで人間のふりをしていたのかもしれない」みたいな思いが一瞬のうちに湧き上がることさえある。“捻転”の瞬間に起きているリアリティは、超個人的な、極まった根源的な、苛烈なものがあるように感じます。
まだ人間である、永遠に

photo by Keita Otsuka
———ここで強調したいのは、あくまでも花形さんは人間に留まりながら、ひととき捻れることを志向されていることです。求めているのは、“捻転”の状態に留まることではありません。
花形:そうですね。人間という存在が無理なものに晒されて捻転する時———ギリギリ、グニャッとした摩擦のなかで———いろいろなことを考えてしまうことに人間味があるというか、ここでいろいろと思ったり考えたりするところに僕の考える「再定義された」人間性があると思うんです。
過去作「still human」の制作思想と通底しますが、「まだ人間である」ということが僕にとっては重要です。真の意味での変異はできません。とても頑張って椅子になろうとするのに、そうかと思えば非常に人間らしくパソコンでオンライン会議する、その相反した営みが同時に存在するようなこと———なにかへと変わっていこうとすることと、変わっていけないこと———のマルチスタンダードが人間らしさで、その文脈上の「人間」にならば僕は興味をもてる気がします。
「エルゴノミクス胚・プロトセル」を引き合いに出せば、椅子に<なっていない>人間の方が、僕にとっては人間を発揮できていない気さえしてしまう。椅子に<なる>方がなれない自分を感じられるし、椅子に<なる>意志を発揮する「人間らしさ」が立ち現れるのではないかとも思います。

Drawing by Shin Hanagata
———自由と主体性をもって意思決定可能な近代自我を捨てきれないことを寛容しつつも、反作用としてうまれるエネルギーと、そこで生じる記号化不可能な情感な情感を味わう。“捻転”は、規範化された社会に完全適応してしまう生物へのアンチテーゼにも感じられます。
花形:正直に言えば、“捻転”現象をうまく表現できないので、“捻転”という新しく言葉を造りました。ただ「養老天命反転地」を建造した荒川修作氏とマドリン・ギンズ氏らも近しいことを考えていらっしゃったようです。おふたりは地面や壁を水平垂直にせず、いろんなテクスチャーをもった表面にする建築や空間を設け、転ばないにせよ「普通に」暮らす体が適応できなくなる場をつくりました。その感覚を「自然に還っていく」という人もいれば、「新しい体にひらかれる」という人もいるようですが、いずれにしてもそうしたことを「天命を反転する」のだと。
おふたりと自分との決定的な違いは、トップダウンかボトムアップかでしょうか。僕自身は自分自身の身体を変える———感覚器を変容するところをスタート地点にするけれども、氏らは環境を変えることを起点としているのかもしれません。それによって、世界(環境)はコンセプチュアルに180度反転させるような感覚を個人的に覚えます。文字通り世界が裏返り、裏返った世界が現実の立脚点となる。「完全に椅子になり(反転する)、それ以前の自分は何も残らない」ということ。対して“捻転”は、もうちょっと不完全な具合の反転。「元の自分も残しながら椅子になる」。両義的であるからこそ、そこに生じる矛盾や絶望、諦め、喜びも出てきてしまうと考えています。

Drawing by Shin Hanagata
———荒川氏の出自は詩人であり、ある人が死ぬという天命を反転させる思想「天命反転」を実現するために活動していらっしゃいました。二項対立的な対概念が基軸にあるという点で花形さんとは対照的ですが、そこに近接点が見出せることが興味深いです。
花形:荒川氏と直接お話ししたことがあるわけでもなく、僕の所感ではありますが、コンセプチュアルアートでもあると同時に社会に対して「本気で存在させてやろう」という気概を感じるんです。実際に居住可能な「三鷹天命反転住宅(東京)」も存在しますし、憧れの存在です。
椅子に<なる>前後
———「エルゴノミクス胚・プロトセル」に話は戻りますが、上演後、それまで椅子に<なる>ことをしていたアクターたちがよろめきながらもゆっくりと時間をかけて立ちあがり、幕引きの挨拶を行ったことが印象的でした。あれは意図的なものですか。
花形:僕はそんなに多くのパフォーマンスを鑑賞したことはないのですが、それでも見てきたものを例にすると、上演後のカーテンコールに関しては腑に落ちないことが多かったんです。それまでフィクションの世界にいた演者たちがパッと切り替わってリアルな姿に戻る。それが「はい、嘘でした」みたいに見える。そうした方がいい場合もあると思うんですけれども……。実際に演者のみんなも「上演後はあんまり動けない」と言っていたので、じゃあ動けないままカーテンコールをしても良いかとありのままの状態で行うことにしました。
Photo by Azusa Yamaguchi
公開実験『エルゴノミクス胚・プロトセル』において、アクターたちは自身が「アクターである」ことを伏せて、一般観客に混じって着座待機している。開演後、観客全員に対して、場内アナウンスが椅子に体をあずけたり、足を絡ませたりを求めるうちに、アクターたちの動きは人間の理性を離れ、椅子に<なる>。すぐ隣に座っていたアクターの椅子に<なる前>を知っている観客は、これら一連のイントロによって、椅子になることの前提が現実世界になめらかに滑り込んでくる感覚を得ることになる。
———それによって“捻転”以前/以後のシーケンスが完成したように感じました。演者のみなさんがすぐには正気に戻れず、ままならなそうな重い体を引きずるようにして幕前に移動する様子そのものが『エルゴノミクス胚・プロトセル』の真骨頂に感じられましたし、それによって、椅子に<なれない>観客としての自分を強く感じさせられたのも事実です。
花形:鑑賞後の感覚として「自分は座っていることしかできないのだ」と思うパフォーマンスはあまりないかもしれません。上演を見て「椅子に<なりたい>けれども<なれない>」という人は少数かもしれませんが、その視点から自分たちは「制限された存在」と自覚する体感が生まれたらいいなとは思っていたので、それができたならば本望です。やってみたかった取り組みでしたから。
———本作は公募展『やまなしメディア芸術アワード2025-26』においてY-SILVERを受賞し再上演され、今年2026年秋には「本公演」を控えています。一連の過程において、作品に関するなんらかの変更点があれば教えてください。
花形:今年秋に予定している本公演では、昨年のギャラリースペースから拡大し、シアターでの公演を予定しており、より大きな舞台でさらに重厚に「椅子になる」ことを極めていこうと考えています。
———鑑賞体験がどのように変化するのかが楽しみです。今日はありがとうございました。



