インタビュー
活動支援生インタビュー Vol.14 久保田 樹 個展「EYES SUNRISE REALIZE」「An Explosion to Memorize」を終えて
クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。
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Itsuki Kubota |久保田 樹
彫刻家・ラッパー、Meta Flowerの1年ぶりの個展「An Explosion to Memorize」が渋谷西武で開催された。前回の個展「EYES SUNRISE REALIZE」の目玉は『創世記』の聖句を銀杏の木に刻んだ作品であり、モチーフは「言葉」だったが、今度は爆薬を用いての音速を超えた衝撃波による彫刻作品だ。
言葉→衝撃波。
なんとも象徴的なこの変化は何を意味するのか。ざっくばらんに問う。
話し手☞Meta Flower
聞き手☞山田文大
学部生の頃とターニングポイント
――渋谷西武での個展「An Explosion to Memorize」は、アーティストMeta Flowerの記念碑的な展示とも、大学院修士課程含む、ある種藝大での6年間の集大成的なものとも言えそうです。最初に学部生の頃の制作やターニングポイントとなった出来事などから、今に至るまでを順を追って聞かせてください。
久保田:時系列順に話すと、三浪して入学したんですけど、当時は精神的にもっと尖っていたというか、イケイケでした。元々彫刻は好きだったのですが、同時にコツコツ石を削って木を削って…というのはこの頃からあまりやる気がなかった。興味は現代アートのほうに向いていて、これからバンバンやっていこうという気持ちで、1年の秋に学内で展示をしました。ただ、いざやってみると「あれ?」という…。その時点で、あまり焦ることないのかなという気持ちになった。
――それはなぜですか?
久保田:うーん。なんですかね。当時は周囲との温度差みたいなものも感じていたんですよね。本当にアーティストを目指している学生もいればそうでない学生もいるし、僕みたいに、いわゆる古典的な彫刻に興味がむいてない学生がいれば、現代アートはクソだ、俺は古典だみたいな学生もいる。ただ、学部の時ってそういうことをいくら話したところで、論点もズレてくるし、結局言い合いになるしかないというか。僕自身いわゆる「彫刻」がやりたいわけではない…そうは言っても、では現代アートをどうやって作るかという勉強をしたこともなかったですし。その展示の少し前にアーティストとしてのバックボーンを作ろうと思ってラップを始めたのですが、そういうことも無関係ではないと思います。
――寄って立つものが見えてなかったということなのでしょうか。とはいえ、この時期にアーティストとしてのバックボーンを作ろうという発想からラップを始めたのは、後の作品群を思うとなんとも暗示的な「飛躍」ですね。「言葉」と「彫刻」の関係性への問いが否応なく始まってしまったというか。
久保田:そうですね。当時はラッパーがアートするってウケるじゃんくらいの気持ちで始めたのですが。とにかくその展示の後、ちょっと大学から気持ちが離れてしまい、そのタイミングで春休みにたまたまドイツに行く機会があった。
その時はドレスデンで映画祭を観て、そこからアテネに行きました。これが僕にとっての初めての海外渡航経験だったのですが、衝撃の体験だった。ドイツの田舎にある美術館に行ったときに、いわゆる何億円クラスという有名な彫刻家の精度の高い大きな具象彫刻が50体くらい、ペットボトルのペプシマンの蓋みたいにバンバンバンと置いてある中に、良いものは良いという感じで小さな無名の…精神病を患った人間の作った頭部が一個だけ置いてあったり。そこで自分はこの手の具象彫刻はやらなくていいとまで思ってしまったんですよ。この歴史を更新するのは自分の仕事ではないというか。
ドイツでそういう展示を見た後に今度はギリシアに行ってアテネでドクメンタを見た。ドクメンタは5年に一度開催される現代美術展ですが、そこでも衝撃を受けました。内容は政治的で…国際展は概してどれも政治的な傾向が強いのですが…世の中が戦争でどう動いたかといったことばかりやっているというか。当時はシリア内戦がテーマで、シリアのラップを見ることもできました。そういった体験をして帰国したら、もう浦島太郎みたいな気持ちになってしまった。
――温度差はあるでしょうね。作品の陳列をひとつとっても、あいちトリエンナーレの“騒動”に象徴されるような、政治と芸術との距離感にしても、まったく日本とは違うだろうことは容易に想像できます。
久保田:そういうこともあって学部の2年になった時には、自分がやりたいことがなんなのか完全にわからなくなってしまっていた。そういう状態で後期に受けた森淳一先生という教授の「イメージの在り処」という授業が、僕の人生で結構大きな意味を持つものになった。「イメージの在り処」は一週間に一度、先生と話すだけのクラスです。1週目は「どういう作品を作りたいか」、2週目は「どうすればそれができるか」、3週目は、「マケットを作る」。マケットは大きな彫刻を作る前段階として作る縮小版のことです。ドローイングをして、マケットを作って本番…というのは彫刻作品の制作において一般的な工程ですが、まず習作のようなものを一個作るわけです。
僕が何を作れば良いかわからないという話をしたときに、どういう流れからか、ラップをしている話をしたんです。大学では元々誰にも話してなかったので、学内での初めてのカミングアウトでした。その時、森先生に「彫刻とラップを並行してやっていくのは難しい」と言われたんです。彫刻はひとつの作品を作るのに時間がかかるのに比べて、ラップはもう少し速い。1曲作るのと彫刻をひとつ作るのはスピードが違うし、表現方法も違う。作家人生としてはすごい苦労することになるのではないかと。
――確かにヒップホップの表現は、フリースタイルやグラフィティアートが顕著な例ですが、即興性が属性のひとつですね。“マケット”不要の表現とも言えそうですし、“マケット”そのものが表現と言えるかもしれません。
久保田:伝わる速度も違いますよね。ラップがすごい速度で伝わるのに対して、彫刻はすぐには伝わらない。目に見える見えないも違うし、聴こえる聴こえないの違いもある。物として違うから、それを作家としてどうするか考えなさいと言われました。
――彫刻とラップを比較して考えたことがなかったですが、どちらも「Meta Flower」という1人の表現者から出ているものと思えば確かに、両者が対極的な表現であるというのはとても興味深いですね。
久保田:で、当時の自分は結構もうおばかちゃんだったので(笑)、じゃあもうめちゃくちゃ速度の速い彫刻作品を作ろうと。そこから“爆薬”というアイディアが出てきた。音速を超える彫刻を作るというイメージ。音(ラップ)より速いもので彫刻を作るということを思いついたんです。学部2年の終わり頃に爆薬で彫刻作品を作りたいと言い出して、先生からは「アイディアはおもしろいからやってみれば」と。同時に「すごく大変」とも言われましたね。その授業では爆竹を粘土の中に埋めて着火し、いろんな方向に振動がいき、サボテンのような形状のマケットを作りました。
それで3年になって…それからは本当に…ほぼ爆薬の勉強、あとはラップと酒しかしてないですね(笑)。学部3年の時は爆薬の免許の試験に落ちてしまった。この時点で、4年でその試験に受かったとしても、免許の交付が10月とか11月なので、爆薬を用いた作品は卒業制作には間に合わないことが確定しました。免許があれば作れるという類のものでもないので、そこから1月(卒展)に向けて、爆薬の作品を作るのは現実的ではなかった。
――「An Explosion to Memorize」の萌芽は学部2年の授業にあったわけですね。とはいえ、伺っていると爆薬の免許は1年に一度の試験のようですし、試験に落ちたことで、まるまる先の予定が頓挫してしまった?
久保田:そうですね。やりたいことが叶わなかったので、とにかくその時はラップと彫刻を合わせようと、そういう方向に自分を持っていきました。そのふたつを掛け合わせようというのは、学部の間ずっと考えていたことではあったので。ただ、その頃は酒浸りの人生もいよいよ酷くなっていて、焦燥感もありました。それで友達がたまたま行っていたこともあって、学部3年の終わりにアルバイトでお金を貯めてイスラエルに行ったんです。これがすごく大きかった。
そう考えると、僕は結構海外に行って価値観の転換があったと言えるかもしれません。この時はイスラエル、パレスチナ、ヨルダン、ギリシア、トルコを巡りました。イスラエルからパレスチナに向かって1時間くらい砂漠の中を走り、分離壁のゲートに到着するのですが、そのゲートを越えたときに、嘘と本当/正義とエンターテインメントの境界を感じざるをえなかった。バンクシーがどこに作品を描き、Googleアースには映らないパレスチナ側の壁には何が描かれているのか。パレスチナ人は英語も話せず、ゲートの外には出られない。基本的には、その中で生まれその中で死ぬしかない。そういう世界を目の当たりにするのはやっぱり衝撃だったし、自分がどちらの側でやっていくのかを考えさせる出来事でした。
――それは現代の創作活動においてもっとも…と言い得る非常にセンシティブで重要な問いだと思います。ですが、今ここで掘り下げるにはあまり荷が重いので、死海での体験についての話に移らせてください。
久保田:死海に行ったのはその後ですね。琵琶湖くらいのサイズの湖ですが、生命体がいない故の“死海”なのに、すごいエネルギーを放っている。そこで音楽を聴いたり、イスラエルのユダヤ人が淹れてくれた紅茶を飲んだりお菓子食べたりしながら、5時間くらいボーッとその水面を見ていたのですが、その時、自分は本当に三途の川に来てしまったのだと思ったんです。自分が死んでしまったような錯覚に陥って、ふとそれまでの自分を気にするのをやめようと思った。そこからなにかスッキリした状態になって、ヨルダンに行き、ギリシャに行って…ギリシャはヒップホップが盛んで、たまたま会ったビートメイカーにビートをもらったり。先にトルコに行っていた愛染(註1)にその話をしてレコーディングしたいと伝えると、僕が着いた頃にはスタジオを確保してくれていました。それでいざレコーディングした時、自分のラップがガラっと変わっていたんです。元々ボソボソと間を開けてラップするみたいなスタイルから、めちゃくちゃ言葉を詰めて、今のスタイルに近いラップになっていた。死海で過ごした時間を境に、だんだん本当に人が変わったと実感するようなことがいくつも起こって、言うことも変わっていった。酒に溺れる頻度も減っていきました。それが学部4年に入ったあたりのことですね。
言葉と彫刻、あるいはラップと爆薬
――不思議な体験ですね。学部での卒業制作「追憶」の話を聞かせてください。
久保田:さっき学部3年の時に、彫刻と音楽をいかに掛け合わせるかをずっと考えていたという話をしました。爆薬の免許取得が卒業制作に間に合わないとなってから、迷いに迷って改めてなんとか掛け合わせてみようと、そこからラップのリリックを粘土で掘るようになった。そこで自分の中でラップと彫刻…両者の持つライブ感の接点を作ったというか。その時に即効性のある素材がいいと思って、発泡ウレタンに辿り着いたんです。すぐ固まるし、一度に剥がせる。それで何枚もそのスタイルで作ろうと。卒業制作は、自分の中の彫刻とラップを融合した作品です。「イメージの在り処」の授業で示唆を受けた両者の速度の違いを表現するのに、発泡ウレタンは適した素材でした。
――それらの作品はAPARTMENT HOTEL SHINJUKUでの個展「EYES SUNRISE REALIZE」につながる作品ですね。
久保田:卒業制作でなんとなく彫刻とラップの隙間は埋められたという手応えがありました。ただ、現実には大学院1年になった時にコロナの感染が拡大してギャラリーも全部閉まり、作っても発表する場所がないという状況になってしまった。元々APARTMENT HOTEL SHINJUKUのオーナーが「個展をやらないか」と声をかけてはくれていたのですが、ホテルですしコロナ禍の煽りをもろに受けて、個展の話もストップしてしまった。それくらいの時期に、SHIBUYA STYLEという西武が毎年暮れに開催する、1人1メートル幅くらいのスペースの、若いアーティスト限定のグループ展に呼んでもらう機会を得ました。そこではICE CUBE(※註2)の頭部とリリックを彫ったものを出品したのですが、リリックのほうが売れたんですね。そして、年明けにAPARTMENT HOTELのオーナーから再度個展をやらないかと声をかけてもらえて、5月末に開催したのが「EYES SUNRISE REALIZE」です。
――聖書の一節を大きな銀杏の木に彫った作品は、卒業制作(『追憶』)の展示の延長にも思えますし、またあのモニュメント感はそれまでとは別種の雰囲気を醸しているようにも思えました。
久保田:言語を彫刻する、人の対話の中に言語があって、それを可視化するという一連の作品ですね。(銀杏の作品は)『創世記』の「神は人間を神と似た形に作った」という有名な一節を彫ったものです。聖書は翻訳学で、ユダヤ教、旧約聖書、新約聖書はすべて異なる。僕が触れた、作品の出発点となっている聖書の解釈では、人間の頭部を作ってはいけないのです。まず行為として(人間は)神以外の人間を作ってはいけない、自分が作品になることは許されないという前提がありました。それで、最初に彫刻を支える芯棒を(作品として)作ろうと考えたのですが、それではどうも説明的過ぎるなと。
――説明的過ぎる…というのは、コンセプチュアルに過ぎると言い換えられるでしょうか。方向性としては支持体でその意図を伝える表現というか…。
久保田:「不在」の意味がまさってしまって彫刻として肉付けできないと感じたのです。その段階があって、人とのやり取りを可視化する方向に変化していきました。それで、直接聖書を彫ろうと思い至った。翻訳の影響によって、本来の意味合いが変わってしまっているのではないか。そうした違和感を僕自身が拭えなかったキリスト教の聖句の文字を繋げて網戸のようにすることで、信仰心ということでは距離が生まれてしまった布教する友人との間に彫刻を介在させる。そういうイメージからできた作品です。
――なるほど。言葉はまったく違っても、人間関係にダイレクトな言葉を介在させる表現…という意味では非常に「ラップ的」な発想の彫刻と言えるかもしれません。
久保田:言葉のやり取りを彫刻するというテーマに関しては、今後もしばらくは続けていきたいと思っています。この展示にSHIBUYA STYLEに呼んでくれた西武の方をお誘いしたら顔を出してくれて、結構気に入ってくれたんです。その年の暮れにもう一度、SHIBUYA STYLEに呼んでもらい、西武で個展をやらないかと声をかけてもらった。それが今度の「An Explosion to Memorize」です。
「An Explosion to Memorize」と今後の展望
――お話を伺っていると、様々な出来事が有機的に結びついてMeta Flowerさんであり、その作品を存在たらしめていることがよくわかりますね。ここからは爆薬の一連の作品、院での卒業制作〜「An Explosion to Memorize」について伺いたいです。
久保田:まず彫刻はエネルギーを作るものというイメージは一貫してずっと持っているんですよね。エネルギーをどう見つけていくかという仕事は、彫刻の歴史の中で重要な要素です。その前提があった上で一番最初の出発点は、人間はエネルギーを目で見ようとすると「炎」以外見ることができないということでした。ではエネルギーを目で見るためにはどうしたらいいのか。まず火の型をどうやって取るのかについて改めて考えたのですが、それは無理だなと。そこからエネルギーの型を取るにはそうすればいいかについて考え、エネルギーが何かにぶつかったものを象(かたど)るという発想に思い至りました。本当にそこですね。爆薬がバンってなった瞬間の型を取るのが一番リアルだと思った。
――3年で一度「爆薬」を扱う免許を落ちたというお話をされていましたが、試験に関しては4年では理解も深まって受かるべくして受かった感じなのですか?
久保田:結構勉強し直しましたね。毎日8時間くらいを2週間みっちり、一夜漬けのように詰め込んだ感じです。日本ではトンネル発破と山の採石くらいにしか使わない技術で、工業大学なんかでは自動的にとれる類の免許です。実際の免許の内容としては、火薬を使って花火を作れるわけではなく、僕は設置してボタンを押すだけです。免許をもらったらとりあえず僕は責任者としてその現場に立つことができて、技術者である副責任者を呼んで、その人と一緒に設置してボタンを押すという流れですね。
――そういった技術者が親戚にいたというお話ですが、そもそも爆薬は免許があって技術者さえいればスムーズに使用できるものなのですか?
久保田:その点に関しては僕はかなり強運でした。これはかなりおもしろい話ですが、まず爆薬…火薬類というんですけど…全般を芸術に使ってはいけないんです。で、日本には過去に2つだけ許可がおりた事例がある。ひとつはかなり遡って、アトリエでパフォーマンスとして火薬を使って爆発させるという許可を取った例。ただ、この時からは法律が変わっていて参考にならない。
もう一例は、蔡國強がやっているんです。横浜の美術館の中で、学生と一緒に火薬を撒いて作品を制作するというもの。この時は条件的にはかなり厳しいものがあったのですが、一流アーティストという前提があって、ものすごく厳重な設備の中でやったという事例です。でも、2つの事例はどちらも火薬で、爆薬の使用許可は取れないだろうとずっと言われていました。ラッキーだったのは県央地域県政総合センターに書類を申請しに行ったら、担当者がその蔡國強の許可を出した人だったんですよ。もう大当たりでしたね。その人が出て来てくれて「ああ、昔もやった」と。提出した書類を見て、これなら山の中で元々爆薬を使っている場所だし、許可は通るのではないかと。親戚筋の人が興味を持って一緒に動いてくれたということもあって、最終的に許可がおり、なんとか修士の作品に間に合いました。
――ちなみに火薬と爆薬は何が違うのですか?
久保田:エネルギー量ですね。爆薬と言われるものは衝撃波が起きる。科学的にはまず衝撃波が走ってガス膨張が起きる。それが音速を超えた秒速5000m。火薬は火で、いくら圧縮をかけてもエネルギー量が弱いので音速を超えた衝撃波は出ません。穴くらいはあくかもしれませんが、そんなに大した穴ではないと思います。僕の作品に関していえば、音速を超えていることがキーワードとしてあるので、やっぱり爆薬でやることに意味がある。この速度よりさらに速いものを望むと、もう原爆を使うか、家一軒分くらいの爆薬を地中に埋めなければいけないといった話になってくるので、現実的には難しいと思います。
――具体的な手順をもう少し教えていただきたいです。
久保田:まず地面にドリルで穴を開けて、そこに導線のついた爆薬をこう…ポトっと入れて、そこから砂利を詰める。砂利を詰めると、爆発した時にその砂利がプシュっと吹っ飛ぶんですね。鯨の潮吹きみたいに。そうするとドリルで開けた穴だけが残るので、そこから溶剤を流し込みます。爆発しても砂利が吹き飛ばなかった場合もありましたし、吹っ飛んだ後に穴が潰れてわからない状態になったり…。溶剤を流し込んでも、途中で詰まって棒しか出てこないとか。中が見えない状態で溶剤を流すので、そういうミスも結構起こりました。爆薬を埋めた山が泥っぽい粘土質だったのですが、地層の影響をもちろん受けるので、やっぱりそこの土壌があってできた作品とも言えます。砂浜ではできないですし、石しかない山であれば爆発した時にヒビが入るだけで、ああいう空洞はできなかった。そこから今度は空洞の型を発泡ウレタンで取る作業です。
――ここでも発泡ウレタンが出てくるわけですね。ラップと彫刻を繋ぐ時に使った素材がここでも活躍するのは、なんとなく奇妙な符合を感じる話です。
久保田:膨らんで固まってくれる素材を僕がこれしか知らないので。同じ性質を持つ金属だったり丈夫なものがあれば良いのですが、現時点では見つかっていないですね。
――エディションNo.のような、個々のタイトルが意味するところはなんですか?
久保田:タイトルに関しては、まず「爆薬の◯◯」という風にしたくなかったというのがあります。そうすることですべてが「爆薬」に引っ張られてしまう。作品にそういう意味づけをしたくなかったので、実際に起きた時間をタイトルにしました。爆発の衝撃波が100万分の1秒で伝わって、化学的なガス膨張を起こして空洞ができる。それが(タイトルの)「0.0000001」という数字が意味するところですね。
――長時間ありがとうございました。最後に、今後の展望のようなものがあれば伺いたいです。
久保田:展望はもちろんあります。爆薬によるこれらの作品を3Dスキャンすれば、粉末造形できるので、それでまずもっと大きなものを作りたいというのがひとつ。一方で小さいものをブロンズにして作品として残すということもやりたいですし。あとは人間のモニュメントとして精度をあげていって、やっぱり全世界にこれを野外彫刻として展示してもらいたいとも思っています。重要なのは、これはあくまで彫刻作品であって、どんな服でも着せられるということです。一連の作品について人と話していて興味深いのは、爆薬でできたという事実があるだけで、まず連想するのが、みんな自分の中で起きている社会問題なんですよ。あくまで僕は彫刻としてやっていますよとしか言わない。それでも、戦争の話、環境問題についての話、原発の話に発展していく。それをどこまで発展させられるかが僕の仕事。今はそのための努力をしていきたいと思っています。
註1 :パレスチナに一緒に行ったラップ制作のパートナー。註2:社会派ラッパーとして有名なアフリカ系アメリカ人ラッパー。