インタビュー

活動支援生インタビュー Vol.33 黒瀧 舞衣 「いのりの繰り返し」

クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。

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Mai Kurotaki|黒瀧 舞衣

東京藝術大学修了作品展での展示風景

 

奇妙で、すこし恐ろしげで、しかしどこか懐かしい感じもするような、異形の木彫像が立ち並ぶ——。令和3年度の東京藝術大学修了制作展で発表されたこの一室は、クマ財団第5期生で同財団活動支援生でもある黒瀧舞衣によって造形された。彼女はなぜ木を用い、そしてどんな望みをもってかたちを刻むのか。この像たちの本懐に近づいていくための道標を求め、黒瀧本人に話を聞くことにした。

聞き手:吉野俊太郎

続いてゆきますように

——ああ、これが。修了展でも展示されていた作品ですね。

黒瀧:《生命の門》というタイトルです。もともと一本の木だったんですが、それを半分に割って、中にいる人みたいなところから……表側が現代で、裏側が原始の世界みたいなものをイメージして、昔から今まで繋がっている生命みたいなものを表しています。

——その原始の表現というのは、どうしてこのような模様になったんですか?

黒瀧:原始というか、恐竜とか住んでいた時ってシダ植物とかがあったらしくて、シダ植物っぽいイメージみたいなものを裏側には作ってみて。

——右側の一番下の造形はおそらく受精卵が胎内で変化していく様子がモチーフになっているのかなと思うのですが……。受精卵は爬虫類や魚類といった進化過程を辿っているという見方もありますよね。となると、ものが変身していく様子であったり、あるいは変身の過程のどちらでもない状態に関心がおありなのかなというように思えました。

黒瀧:たしかにこの作品だと両生類的なところのかたちから人間に進化していく長い年月がお腹の中の10ヶ月で繰り広げられているのが面白いなと思っていました。中間、二つの造形が揺れ動いて一つに見える、みたいなことはイメージしています。

——一方で隣の人物像の表面には鳥の羽か魚の鱗かあるいは甲冑のようにも見える模様が彫られていますが思えば、作品全体に装飾的な要素がたくさん散りばめられていますね。

黒瀧:そうですね。装飾は毎度登場するんですけど……造形と構造みたいな要素を繋ぎやすいというか。うまく繋げられるので使っています。装飾の連続性で、なにか広がって見えるような、続いていくように見えるように。そういう意図があって使っています。

——過去の卒業作品《衣に依る》でも《ホッカイボッコ》でも、「積み重ねる」という手段をとられていますけど、黒瀧さんの作品ってそれぞれを隣り合わせて積み重ね、なんだか永遠にかたちが続いていきそうな感覚にさせますね。

小さな造形たち

2012年(高校2年生)の時に描いた油絵《ねっこ》

——すこし根本のところから質問させてください。まず……どうして木を彫っているんでしょう?

黒瀧:もともと樹がとても好きでした。最初は樹の絵を描いていたんです。でも絵というのと自分の距離感とがあんまり合わなくて……父が船大工だからか、立体の方が自分に合っている気がしました。最初に木の立体を見たのがアイヌの、木彫りの熊とか、そういうものが周りにあって。そっちの方が木と身近に関わりあえるから、合っているな…と。

——熊彫りもですが、道内の彫刻家といえば砂澤ビッキも著名ですよね。彼も木彫です。

黒瀧:まさに、札幌芸術の森の砂澤ビッキ作品《四つの風》という木の柱が4本立っている作品を……。といっても私が見たときにはもう3本は朽ちて倒れていたんですよね。当時「彫刻だ!」という感じではわからなかったんですが、それでもすごい衝撃を受けて。それが高校生くらいのときだったんですけど、そこから。熊なら、藤戸竹喜も。

——ふむふむ。木彫りの熊の話から延長すると、各地の郷土玩具や民芸品を蒐集されてもいるとのことですが、それらもどこか制作へのヒントを与えているものなのですか?

黒瀧:集めているものは郷土玩具とか祭具とか、主に木工品ですね。日本の彫刻の手法って基本的に仏像の技法が基になっていることが多いじゃないですか。わたしは北海道だからということもあってか、あんまり仏像を見る機会に恵まれなくって……修学旅行で初めて見たレベルで(笑)

なので、仏像というよりかは郷土玩具とか、青森に住んでいたこともあったので、こけしとか。そういった小さな造形物の方が自分には身近だったということもあって、制作にはそれらの要素や、あるいは作り方の知恵を貰いつつ作っています。

——修了展で展示されていた《シャカシャカシカク》のシリーズなどは、握ったりだとか触ったりっていうような、触覚に訴えかけるような現具的特徴がありますよね。サイズもそこまで大きくないですし。

黒瀧:そうですね、四角、三角、丸というようなゆるっとしたテーマの中で作った作品です。《シャカシャカシカク》はアイヌの楽器からヒントを得ていて、トンコリという弦楽器なんですけど。トンコリは中が空洞になっていて、完成させるときにガラス玉などを入れると「魂の音が鳴る」っていう。この《シャカシャカシカク》も中を空洞にしていて、中に貝殻とかビーズとかをたくさん入れています。

左から《シャカシャカシカク》《サンカクカタカタ》《パタパタマルマル》2022年

——なんと!空洞といえば、他の作品も内刳りはしているんですか?

黒瀧:はい、内刳りは自分にとって大事なプロセスになっていて……。

——なぜ大事だと?

黒瀧:本来であれば中を刳り抜いて、乾燥を速めたり、軽くしたりという目的はあると思うんですけど。それ以上に、中が空洞だと内と外を意識させて、中に魂とか生命的なものを閉じ込められるんじゃないかという意志があります。わたしの作品は段々に、ぶつ切りになっているんですが、その一つ一つがドーナツ状の輪っかになっているんですね。これを重ねていくとその場所に箱のようなものができて、その場所その場所で生命が蘇るような……そういったイメージがあって、内刳りをしています。

——興味深いです。それと、《シャカシャカシカク》《サンカクカタカタ》《パタパタマルマル》にはすべて音の名前がついていますね。

黒瀧:そうですね。擬音語のような、視覚的に見る音のかたちをイメージしていて。《シャカシャカシカク》だけはすこし異質になってしまったんですけど(笑)

——実際に音が出ますものね(笑)……でもよく見ると、すべて音のあり方が違いますね。「カタカタ」は下部のジグザグ部分の視覚的状態を表すオノマトペ。「シャカシャカ」は聴覚的な要素が作品内部にあって、外見からは音の様子が読み取りづらい。で、「パタパタ」の方は造形された生物が羽ばたく様子の表現にも読み取れる。それぞれの音の出どころが異なるようにも思われます。こうした音の表現はこれまでの他の作品には出てくることはあったんですか?

黒瀧:このシリーズが初ですね。

——音に対してご興味がおありなんでしょうか?それともコンセプトとして気楽に出てきたもの?

黒瀧:そうですね、正直結構気楽に。大きい作品を作っている傍らでの制作だったので、手遊びの感覚で。音が鳴っているかたちみたいなものが並んでいたら楽しそうだなと思って(笑)

——これも集めていらっしゃる郷土玩具や民芸品にも関係する部分なんでしょうね。小作品を作るのは感覚的にはどうなんでしょうか?作例はまだ多くはないように思えます。

黒瀧:丸太一本の大きさが、自分が一番やり取りしやすい大きさだと感じていて。大体高さが2mくらいが楽に向き合えるというか。

——2mくらい……そういえば、先ほどアトリエでお見せいただいた制作中の作品も背が高く。あれは、分割されているものを積み重ねている状態でしたっけ。

黒瀧:そうですね。毎回やり方も変わるんですけど。一木で全部作ってしまってから分割するか、最初から分割するか。今は二つのやり方でやっていて、あれは最初から分割しています。

——不思議な作り方ではないですか?想像がしやすいのは、最初に全体で大きなかたちを作ってしまう、あるいは元のイメージに基づいてパーツを制作、最後にそれらを合体させて完成させるといったやり方ですけれど……黒瀧さんはほぼ全て荒取りの状態から積み重ねたりされているので、作り方としては小さく意外性があります。

黒瀧:あの作り方だと全体像があんまり決まってないままなので、「あ、こうなるんだ!」という発見があるんです。

——一回載せては、また下ろすを繰り返す?

黒瀧:そうです。

朽ち・生き・繰り返す

——この分割を前提とする作り方だと、元のイメージとかはあまり関係なくなっていきそうな感じもしますね。分割することそれ自体についてはどうお考えですか?

黒瀧:もともと木に対して思うことは、もうすでに切ってあるものなので、亡くなっているようなイメージがあります。それを復活させるというイメージというか、再生の行為というような感じでは考えていて。

この作り方のきっかけになったことにきっかけみたいなものもあって。一番最初、まだ木彫などもしっかり習っていなかった時に、小さな木のパーツをたくさん集めて、積み重ね、でも固定されていないので崩れて……というのを何度も繰り返すような作品に取り組んだことがあって。講評会の最中にも何度も落ちてしまうけれど、その度に積みなおすような作品でした。それが、朽ちて無くなることと再生することを繰り返しているように感じて。そこから……。

——興味深いですね。その作品の写真は残っていますか?

黒瀧:ないんですよね、ドローイング的な感じでやっていたので。写真撮っておけばよかったなと思うんですけど。でも一番イメージに近いのが、2020年の《透明な像》ですかね。これが本当に初期の作品で、先ほどの工程もこの作品の一つ前に行っていたものでした。学部三年生の時です。

《透明な像》2020年

——死と再生という話だと、安直なものからはゾンビやフランケンシュタインなどを思い出します。

黒瀧:そうですね……そういった死のイメージも結構扱っていますね。卒業制作《衣に依る》は墓標の隣に設置される死神のようなイメージが最初はあって。

そこからだんだんと離れていって……最終的には中に肉体を持った人と持っていない人とが重なっているというイメージの作品になったんですが。

《衣に依る》2021年

——この作品はとても良かったですよね。卒業制作展で拝見して、感銘を受けた覚えがあります。この作品はまだお手元に?

黒瀧:自分で保管しています。この作品は実は卒業制作展でしか披露できていなくって。しかもコロナ禍だったので本当にちょっとの方にしか見ていただけなかったという感じではありました。いずれもう一度は展示したいと思っています。

——本作では人体に関する具体的なかたちがほとんどなく、唯一手の部分だけでしたよね。切り込まれた溝の深さからは布の中に何の存在も感じとることができなくて、バロック期の彫刻家ベルニーニの作品《福者ルドヴィカ・アルベルトーニ》と同様の指向性を感じさせました。肉体がどんどんと溶けて抽象化していく、と言ったら良いのでしょうか。

しかしその後に黒瀧さんがKUMA EXHIBITIONで発表された《ホッカイボッコ》ではとても具体的な眼の表現が出てきていますよね。そして修了作品ではより人体としては明確な造形だと思います。この変遷には何か転機があったんでしょうか?

黒瀧:これまでも人の顔とかを作りたいとは思っていたんですけど、なんだか「作れない」とずっと感じていました。そこからやっと修了制作で、そろそろ作りたいなという気分に成れて(笑)全部隠すような表現をしなくても、人物の具体的な顔を作ったとしても「見えない」というか、こういう感じと似たような表現にできるんじゃないかなと思ったんです。

——「見えない」?

黒瀧:うーん……具体的に固定されなくって、誰とも見えないような。普遍性みたいなものを持つ人を、ですかね。

《わたしには、わたしがいる》2023年

——なるほど、特定の誰かではなく、ですね。でもこの作品は《わたしには、わたしがいる》と、タイトルに”わたし”が2回出てきていますよね。この“わたし”というのは、今の話からいけば不特定の、あらゆる人にとってのI(アイ)ということですよね。

黒瀧:そうですね。

——となると、共感・共有することへの意識が強い作品とも読み取れますね。この作品を観ることによって、鑑賞者が自分自身について振り返るというような。ところでこの作品、トーテムポールにも近いような。意識されているんでしょうか。

黒瀧:似てるって言われて意識しはじめちゃった、みたいな感じは結構ありますね(笑)トーテムポールだけじゃなく、祈りの造形というものは各地にあると思うんですが、その中で共通する造形みたいなものをいつも探しています。その共通する造形から、ちょっと抜けたような愛らしさと、神々しい感じが合わさった造形みたいなものを目指しています。

——《わたしには、わたしがいる》では、パッと理解できるもので6つ、人間の頭部が縦に並んで彫られていますね。過去・現在・未来と時間性のある表現でもあると思うんですが、これは古今東西の墓標でもたびたび見られる造形だと思います。そうしたものには守護神のような意味もあったかと思うのですが……先ほどにお話を伺った装飾表現にも関連して、あらためて。あらゆる造形の力を持ってして「護る」とか「弾く」とか、具体的な効果について考えさせられます。

黒瀧:《ホッカイボッコ》なんかは、コロナ禍の世の中を見護りたいという想いを込めていますね。

——よく考えたらそうか、手のひらはずっと内側を向いているんですね。外側を向いている手はほとんどないですね。当たり前のことですけど、手の向きによって表す意味は変わります。簡単な話、手のひらを相手に向ければあなた、自分に向ければわたし。仏像とかも同じく。そう考えれば、黒瀧さんの作品の中でも手はずっと重要なモチーフなのかもしれませんね。

ここに立って、あなたを見護る

《ホッカイボッコ》2021年

——時間が差し迫ってきてしまいましたが最後に、《ホッカイボッコ》という作品についてもいくつか。こちらは「KUMA EXHIBITION 2022」で初披露された作品とのことですが、他の作品とは異なる点として、針金を使ったまつ毛の表現がありますね。黒瀧作品の中ではすこし異様にも見えますが、この技法は今後も使用されるご予定なのでしょうか?

黒瀧:迷ってますね。自分ではあまり深くは考えずに使用したのですが、思いのほか周囲からの反応がよかったんです。みなさん目の部分だけの写真を撮影してくださるのですが、それが良いのか悪いのかわからなくって。

——でもそれは針金が目立っているというよりも、感情的なことを訴える眼の表現になっているからだと思うんですよね。一方でたしかにおっしゃる通り、眼じゃない箇所で同様の表現を行った場合については結果が気になるところですね。

黒瀧:また今後に何か出てくるかもしれません。ちょっとだけ異素材を混ぜるのは自分の中では面白くて、アリだなと思っているので。

——いいですね。そして、この作品は塔でもありますよね。ほかで建築物のスケールが登場するのは《生命の門》くらいか……でもこれも門と呼ぶわりには全体的に生物めいていますね。ここまでしっかりした建築物らしい造形なのは特別感があります。

黒瀧:かなり意識的に、最初から塔のイメージで制作していましたね。

——具体的なイメージはどこから?

黒瀧:これはバベルの塔とか、北海道の網走監獄とか。

——まさかの、網走監獄から!

黒瀧:そうなんです。これの参考になった民芸品があって、それが網走監獄のお土産屋さんで売ってたもので(笑)それで、網走監獄の中心には見張りの塔があるんですけど、その塔とその民芸品の角数、何角形みたいなものが一緒だ!と。

——いわゆる「パノプティコン」と呼ばれるものですよね。放射状に居室が連なっていて、それを中心から監視するという構造。まさにこの《ホッカイボッコ》が大きな眼を持っているという点でも近似しています。

黒瀧:監視しているイメージではないんですけど、全方向をこの眼でもって見護るというのを意識していました。

——灯台のように……こうして振り返ると、黒瀧作品ではいつも垂直の佇まいの素敵さに惹かれます。細く、縦に長く。

黒瀧:どうしても、丸太を立てるとそのかたちなので……樹/木の様子として自然なあり方かな、と。

「昔すごく好きだった樹があって、それが台風で倒れちゃったってことがあったんですけど。そういうことが今も続いているような感じもありますね。」

——樹であることと木であること。そのそれぞれに均等に視線を向けることは、木彫家にとって本来大変に難しいことであるはずだろうと思いましたが……ここまでお話を伺って、黒瀧さんはとても自然な態度で付き合えているように感じられました。いや、それだけに限った話でなく。生全体を眼差すことを可能にする、木彫というメディアのポテンシャルをあらためて思い知らされたこともここに書き記しておくべきでしょうか。

まだまだ伺いたいことは数知れないですが、それはまた、次回に。

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