インタビュー

活動支援生インタビュー Vol.39 廣 賢一郎「詩のようなノワール映画を作りたい」

クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。

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Kenichiro Hiro | 廣 賢一郎

オムニバス映画『DIVOC-12』で12名の監督の一人として選ばれ、「ココ」という作品を監督した新進気鋭の映画監督・廣賢一郎。2023年現在、自ら脚本を執筆した『密漁の夜』という長編映画を制作中だ。ヤクザの密漁に端を発するノワール映画ということだが、彼はこの作品でどんな世界を描き出そうとしているのか? さまざまな芸術作品にインスパイアされながら独自の映画を追い求める廣に、これまでの歩みと新作映画の展望を聞いた。

インタビュアー・ライター:大寺 明

自己を相対化し、外側の世界に目を向けること

━━廣さんが作る映像を見ていると、これから一雨降りそうな空の気配を感じます。独特な色調のようにも感じたのですが、特に影響を受けた監督はいますか?

廣:作品ごとに考えていることは変わると思いますが、映像の色調に関しては一貫しているかもしれません。
影響を受けたというか、好きな監督で言うと、オーソン・ウェルズ監督、テオ・アンゲロプロス監督、クシシュトフ・キェシロフスキ監督、ジャン=ピエール・メルヴィル監督あたりです。国内では溝口健二監督、北野武監督あたりだと思います。たまたま仲の良い友人がフィルム上映の映画館に勤めていることもあって、いろんな映画を観る機会に恵まれています。ハリウッド映画ではジョン・フォード監督、ハワード・ホークス監督、ロバート・アルドリッチ監督、アルフレッド・ヒッチコック監督などの作品のほか、普段あまりお目にかかれないサイレント期の映画などもやっています。
もちろん古典映画だけでなく、現代劇も好きです。美学的な観点ではディヴィッド・フィンチャー監督を敬愛しています。ニューシネマでは台湾のツァイ・ミンリャン監督には人並みに熱狂しましたし、最近特集上映があったメーサーロシュ・マールタ監督作品などは毎日のように映画館に通いました。現代の映画でも好きな作家はたくさんいます。

━━ひと昔前は助監督から映画監督になるのが一般的でしたが、今は自主映画から監督デビューする人が多いですよね。廣さんはどんな道を歩んできたんでしょうか?

廣:中学生のときに映画を志しましたが、芸術大学ではなく、総合大学である大阪大学に進学しました。ですので、組織化された撮影現場を経験する機会はあまりありませんでした。2018年にクマ財団の第二期生に選んでいただきましたが、その頃から、ある意味では技術的なトライ・アンド・エラーの場を兼ねて、ミュージック・ビデオやweb広告などの映像を撮るようになりました。今はそういう現場を経て出会った人たちと映画を作っています。美しい友情の始まりですね。

━━そうしたいろんな撮影を通して、学ぶことも多かったのでは?

廣:はい。しかし、映画に関して言えば、ですが、おそらく映画を撮ってないときこそ学びが多いかもしれません。自分は幸運にも良い友人に恵まれておりまして、人文学全般に精通した人間が多く、彼らとの居酒屋談義は振り返れば発見が多かったような気がします。ある意味では、リチャード・ローティが言うところの「感性の拡張」を無意識に志向する外力として作用していたのかもしれません。自分という存在の卑小さと無教養を強く自覚することに繋がったわけですので。
それで言うと、現在新しい映画を作っていますが、今回「自己を相対化すること」をその態度において、特に意識的にやっているところがあります。自分自身からなるべく距離を置いて、外部の世界に目を向けるということはつまり、自分が理解出来ないものに対する許容を広げるということです。そしてそこには、理解出来ないわけですから、必然的に曖昧さというものが生じます。
曖昧さ、といえば、悪いことのように思うかもしれませんが。ニュースなどで「現代は行間が読めない人が増えている」という話題を目にすることが増えてきました。しかしそれは、曖昧な領域を排除し、二項対立的な視点のあり方が加速度的に進行していった結果でもあると思います。このような時代に物語る人間であることを選んだわけですから、そこに対しての責任みたいなものはやはりあると思いますし、「物語が必要とされない時代」の到来に対して抗わなければという気持ちが人並みにあります。だからこそ自分は、曖昧な領域というものをもっと大切にしても良いんじゃないか、というようなことを思っています。

━━あらためて、クマ財団の第二期生から現在に至る活動を教えてください。

廣:先ほど、クマ財団の第二期生になった頃から、ミュージック・ビデオやweb広告などをやるようになったということをお話しました。まだ右も左も分からず、方向性を模索していた時期にあたります。
ミュージック・ビデオ監督の加藤マニさんと出会い、上京してしばらくいろんな現場で経験を積ませていただきました。少しずつ監督としての仕事をやるようになり、ミュージック・ビデオなどでの監督作が増えていきました。コロナ禍に入ってからは、ずっと脚本を書き続けていました。

撮影現場の様子

━━海外だと、ミュージック・ビデオ出身の映画監督も多いですよね。

廣:そうですね。自分の敬愛するディヴィッド・フィンチャー監督もそうです。自分も、初めはまさしく、そうしたキャリアパスが商業映画監督への近道だろうと考えて始めたような部分が確かにありました。ですが、実際にやり始めて分かったことですが、映画とミュージック・ビデオでは目の付け所も違えば、使う筋肉も異なります。それぞれまったくの別物なんですね。当たり前のことですが、良い映画を作りたいのならば、やはり映画を作っていかなければならないと思います。運良くオリジナルの商業作品を監督する機会に恵まれたとしても、そこで映画の言語を自由に使いこなすことが出来なければ、良い作品は出来ないんじゃないかと。
自分はただ良い映画を作りたいと願ってこの道に入ったわけですから、瑣末な惑いごとからは一定の距離を置いて、映画を観る目を培いながら、ただ淡々と毎日やるべきことを続けようという考えに、いつしか至りました。

━━どうやってその気づきを得たんですか?

廣:やはり多くの芸術作品に触れたことが大きかったと思います。僕の場合は小説だったのですが、きっかけはサマセット・モームやドストエフスキーでした。
ただ誠実に物を作りたいと思うようになりました。無論、彼らが本当に誠実であったかどうかは別問題として。
最近では、フランスのミシェル・ウエルベックの全作品を夢中になって読みました。ニヒリスティックかつシニカルな視点で洞察に満ちた素晴らしい小説を書く作家です。彼の作品は、その過激さやミソジニックな描写が槍玉に挙げられがちな印象ですが、それは表層批評に過ぎないと思います。今の時代にこそ、読むに値する作品だと思います。
音楽、絵画、詩、なんでもよいですが、あらゆる芸術は、人をまだ見ぬ場所へと連れて行ってくれるものだと信じています。

白黒つけない曖昧な領域を映画に

 

━━その後、12名の監督によるオムニバス映画『DIVOC-12』(2021年公開)で「ココ」という短編を監督されましたね。一般公募があり、167人の応募の中から選ばれたそうですが、どんな映画を撮ろうと考えましたか?

廣:コロナ禍の自粛期間中に、長野県松本市にある実家で脚本を書く毎日を送っていたのですが、あるとき、風呂場で父に散髪してもらったんですね。父に髪を切ってもらうのは中学生以来のことだったのですが、鏡越しに父の姿を見ているうちに、ふと「これは映画になるな」と思ったんです。それを元に映画を作ろうと思いました。

━━なるほど、主役の笠松将さんが床屋の父(渡辺いっけい)に髪を切ってもらうシーンがありましたね。他にも田村隆一の「帰途」という詩から着想を得たということですが?

廣:大好きな詩です。自分の作品に引用するのは若干、分不相応な感じがしましたが。その頃、友人たちの間では言語哲学がブームでした。言語の限界性を自覚しながらも、言語によって人は分かり合うという逆説性にどうしようもなく魅力を感じ、それをテーマのひとつにしたいと思いました。ですので、はじめは「言葉にすがりたくないが、言葉に頼っていかざるを得ない存在」のアレゴリーとして、主人公の女の子を盲目の設定で書いていたのですが、監修の藤井道人監督からは「その設定は無い方が純度の高いドラマになると思う」とアドバイスをいただきました。テーマを保持しつつ、脚本をどう軌道修正してよいか分からなくなって頭を抱えましたが、たしかジェイムズ・ジョイスの作品で「もっとも原始的な言語は、リズムのついた身振りである」というような一節があったことを思い出しました。その気付きが最終的に作品を形作ったような感があります。

撮影現場の様子

━━主人公たちが、うまく言葉にできない感情を抱えている感じが伝わってきましたが、それがテーマだったわけですね。

廣:白黒はっきりしない曖昧な領域を大事にしたいとは思っていました。
しかし、反省の多く残る作品でもありました。自分は最近の映画について思うことがあり、それは「悲しい」と「楽しい」の二極化がすぎる傾向にあるということです。悲しいシーンでは悲しい音楽が流れる、というようなことです。自分はそこに対して何か別のことをやろうと考えていたのにも関わらず、短編という制約もあって、なかなか難しかった。結果、全体に通底して重苦しい雰囲気が漂っている。そこが一番の反省点です。友人からは「君の作品だけ、現実だった」と評されました。
浅田彰の「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」というような、ニーチェ的な態度と言いますか、そういったものが自分の作品には足りていないんじゃないかと、痛く反省しました。植木等のようなユーモア、悲しいときには泣くんじゃなくて、大酒飲んで酔っ払う。そっちの方が悲壮感が漂っていてより悲しい。そういう人間的矛盾に満ちた表現こそ、これからもっと真剣にやるべきだなと思います。

━━現在、クマ財団のクリエイター支援を受けて『密漁の夜』という長編映画を制作中とのことですが、あらすじを読むと、かなり本格的な人間ドラマのようですね。ナマコの密漁に端を発するストーリーですが、どんなふうに着想を得たんでしょうか?

廣:自分はずっとノワール映画を撮りたいと思っていまして、「日本的なもの」を考えたときに、やはりヤクザという存在は避けて通れないだろうと考えていました。あるとき、山梨県立美術館のギュスターヴ・クールベ展へ行き、海を題材としたリアリズム絵画を多数鑑賞したのですが、そのうちのひとつにひどく魅了されたんです。やがてヤクザについての文献を読み漁っているうちに、ナマコ密漁が問題となっていることを知ったのですが、そこで例のクールベ作品の寒々とした荒涼感が不思議と結びついたんです。密漁という題材が新規性を持っているようにも思い、それが脚本を書くきっかけになりました。作品はまったくフォード的ではありませんが、冒頭はジョン・フォード監督の『捜索者』のファースト・カットに着想を得ています。そうやっていろんな作品・物事に影響を受けながら作っています。
また、ヤクザを題材にした映画というと、よく今村昌平監督や深作欣二監督のような作品を目指しているものと思われることが多いのですが、理念的にはその逆を目指しています。

《密漁の夜》イメージ画像

━━いわゆるヤクザ映画・任侠映画とは方向性が違うとしたら、どんなノワール映画を撮りたいんでしょうか?

廣:ヤクザの出てくる小津映画とでも言えば感覚的には分かりやすいでしょうか。もちろん傑作は多数存在しますが、いわゆるヤクザ映画・任侠映画は多くの場合、自分にとって対象との距離が近すぎるんです。むしろ、アッバス・キアロスタミ監督の『そして人生はつづく』やツァイ・ミンリャン監督作品、日本だと『キッズ・リターン』以前の北野武監督作品のようなもの、ただ淡々と物事が起こって、ただそれを見るというような距離の保ち方をしたいなと。原理的に可能かどうかはさておき、作者の不在と言いますか、観る人が作者の思想・存在を意識することがないような、そんな作品にしたいと思っています。

━━かなりフラットな姿勢でヤクザを描きたいということですね。それでは最終的にどんな映画を目指していますか?

廣:先に述べたことの延長ですが、今はひとまず、詩のような映画を作ってみたいという気持ちがあります。詩というのもまた厄介な言葉ではありますが。
たしかアンドレイ・タルコフスキー監督の著作『映像のポエジア』を読んだくらいの頃から、映画的リリシズムとでもいうようなものに対する比重が、自分の中では高まりました。
また、なるべく情念というようなものを、意識的に映し出そうとは思わないようにしたいです。被写体や背景に対して、どのような位置にカメラを置くか。俳優やカメラをどう動かすか。ただその選択を淡々と続けた結果、フィルムに何か本質的なものが映っている、そういうものを目指したいです。
あとは何より、「画が青い」ということは、自分にとっていつだって重要です。

━━冒頭で廣さんの映像を「一雨降りそうな空の気配」と形容しましたが、やはり映像の色調を意識されているんですね。

廣:そうですね。ただ、天気をコントロールすることは不可能ですし、いまだかつて思い通りの青は一度も描けていないです。テオ・アンゲロプロス監督は曇りの日にしか撮影しなかったそうですが、羨ましいですね。
なぜそこまで青という色に惹かれるのかは、自分でもよく分かりません。ピカソの「青の時代」なり、イヴ・クラインなり、特定の色にこだわった作家のことを調べたりしましたが、結局答えは出ませんでした。自分は雪国育ちですので、何か幼少期の心象風景みたいなものが根強くあるのかも知れません。
『密漁の夜』でも、できる限り思い通りの青を目指したいところですが、理想とする域に到達することはできないだろうと思っています。何年かかるかは分かりませんが、いつか理想の青が出せたらよいと思っています。

━━最後に今後の展望についてお聞かせください。

廣:『密漁の夜』は2023年3月にクランクインしましたが、ひとまず来年の春まで撮影は続きます。その後もいくつか追撮が入るかも知れません。編集も含めると、おそらく完成は何年も先のことになるだろうと思います。
とはいえ、日々やることは変わりませんので、相変わらず沢山の映画を観て、さまざまな芸術作品に親しみ、毎日やるべきことを淡々とこなしたいです。何十年後かに振り返ってみて、「良い仕事をしてきたな」と思えるのであれば、それが理想です。

━━『密漁の夜』の完成を楽しみにしています。本日はありがとうございました!

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