インタビュー

活動支援生インタビュー Vol.46 倉敷 安耶「他者と自己との距離 / 共同体としてどう生きるか」

クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。

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Aya Kurashiki | 倉敷 安耶

1993年兵庫県芦屋市生まれ。2020年東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。現在は東京を拠点に活動。転写技法を用いた平面作品を中心に、パフォーマンスやインスタレーションなど複数のメディアで発表、他者と自己との関係性に注目し、作品を介して他者という存在や共同体の在り方などについて思索、個体として存在する自身をとおして、他者との融合が可能かを模索している。
倉敷の作品は、西洋絵画やポルノグラフィをwebからダウンロードした画像、自身で撮影した写真などをモチーフにデジタルコラージュを行い、キャンバスなどにイメージを転写する。そして支持体に定着させる工程の中で画面に生じる亀裂や剥落、破れといった損傷も技法のひとつとして受け入れ制作している。倉敷の技法やモチーフについては、「活動支援生インタビュー Vol.17 倉敷 安耶 インタビュー 「駒込倉庫、共同キュレーション展「(((((,」を終えて」」に詳しい記載がある(https://kuma-foundation.org/news/6910/)。

本インタビューは、2023年6月24日(土)- 7月30日(日)まで京都芸術センターにおいて開催された「ニューミューテーション#5 倉敷安耶・西村涼「もののうつり」」閉幕後に、本展の感想、制作について、今後の展望などのお話を伺った。

聞き手 大槻 晃実(芦屋市立美術博物館学芸員)

近年の展示について

——最近参加された京都芸術センターでの「もののうつり」展は、「転写」という手法で制作する倉敷さんと西村涼さんを招いての2人展でした。本展に参加して感じたことや印象などをお聞かせください。

倉敷:京都芸術センター(以下、芸術センター)での展示は自分のなかでは良かったと思います。キュレーターの中谷圭佑さんの希望が「ミュージアムピースになる作品を作って欲しい」というなかなか厳しいものだったんですが、腹を割って決められたところがありました。

滞在制作が1か月半ほどありました。作家が1か月ガッツリ制作と向き合えることってあまりないと思うんですよね。毎日、作品について考えていますが、生活や労働があったりして丸々集中できる機会はあまりないので、良い経験になりました。そのおかげか気付けたこともあって。私の作品は「フェミニズム、ジェンダー、家族、自己と他者、身体、死」といったキーワードが多いんですけど、それは別々のところからきているのではなくて、根幹は1つなんだろうなと感覚的に思っていたんです。自分の中でくすぶっているものが1つなので、派生しているだけで全部つながるとは思っていました。今回の芸術センターの展示で、それらがうまく結びついたのではないかなと思っています。

例えば、食べることや調理が自分と生死やジェンダーに関することであったりと。キーワードとしてバラバラにあったものが少しずつ繋がっていって関係性が見えてきたような。以前、「晩餐会」という料理を振る舞うイベントを開催しました。料理に関してはレヴィ=ストロースの「料理の三角形」という概念から引用することで、焼くことを人間の火葬と捉えたり、発酵を腐敗していく九相図と捉えたり、宗教もジェンダーもかかわってくるので、今まで点で存在していたキーワードが1つの塊になってきたのは、私の制作スタイルができてきたんだなという自覚もあって、すごく良い経験になりました。

《九相図》京都芸術センターにて 撮影: 花戸麻衣

——《Transition#九相図》や《九相図》には大きな穴が空いていて目を惹きました。その穴は刺繡糸で縫われていましたが、形状を元に戻そうという縫い方ではなくて、隙間が見えるように縫われていました。縫合は「再生」という意味が含まれているのでしょうか。

倉敷:あの穴は、最初は偶然空いたものでした。支持体にテンションを掛けてクラックをつけた時に、生地が弱くてビリッと裂けてしまったことがあって「あぁ、どうしよう…」と気になったんですが、私の制作は「起こったことは受け入れる」というスタンスなので、穴が開いてしまったものは「これはもう縫ってしまおう」と思って縫いました。刺繍や手縫いのもの自体がジェンダーの要素を含んでいて、女性が培ってきた歴史が内包されているので、作品のコンセプトにも合うかな?と思って取り入れ始めました。ただ、穴をふさぐように縫おうとすると強く生地を引っ張ることになって、さらに裂けていってしまうので、物理的な理由もあってあのような縫い方になっています。

《九相図》の縫い目

支持体にテンションを強くかけることが出来ないため、傷口を縫合するようには作品を縫えないのですが、自分の感覚としては縫う行為を、治療する・縫い合わせるといったイメージをもっています。
縫うという行為について面白いなと思うことがあります。生地が裂けてしまって構造が見えすぎるということがあるんです。例えば、木枠の部分が大きく裂けてしまって、構造(木枠のつなぎ目)が見えてしまうと、画面にあいた穴という現象よりも、絵画の裏側という現状を見せてしまうことになります。ですので、視覚的な情報が画面のノイズになってしまわないように、隙間を縫い合わせて構造を見えないようにするという意味もあります。刺繍糸でおおまかに縫うので、全部を隠せるわけではないんですが、不思議なことに糸が絵の具でグレーズをかけるような役割をしてくれるので、手芸用品も絵の具のような、物質じゃなくて画面上のレイヤーとしても機能するんだなと思っています。

——その穴を覆う刺繍糸の色はどのように選択しているのでしょうか?

倉敷:基本的に全体のバランスを見ながら周辺の色に合わせて色を選んでいます。たまに目立つ色で縫いたくなる時もあるんですが、そうすると絵具というよりは立体的なコラージュのような印象がついてしまいます。今のところ、刺繍糸は私の画面でそういう役割を担っていないので、なるべく画面に馴染む色を手持ちのもので探して縫っています。

——インスタレーション《わたしたちは家族》は、三面鏡の全ての鏡に鑑賞者が映るので、自己を見つめる場として内相的なイメージを感じました。また、展示された場所の床の汚れや足跡が目につき人の気配が感じ取れるなど、展示室の環境と相まって深く印象に残っています。本作についてお話を聞かせてください。

倉敷:芸術センターで展示した時と、駒込倉庫で展示した時(「(((((,」2022年2月26日(土)〜3月20日(日))では微妙に仕様を変えていました。
駒込倉庫で展示した時は、折りたたみテーブルに置いた三面鏡の角度がもう少し広がっていて、鑑賞者が座ると両サイドの鏡にかすかに自分が映るので、鏡に映った片方の姿も含めて4人分の食卓となるようにしていましたが、芸術センターでの展示では、折りたたみテーブルを半分に折ってミニマムな状態にして、1人用の食卓のようにしました。これは偶然で、展示作業の時にテーブルを全部開くのを忘れていたことによるものです。

駒込倉庫で展示した時は、椅子に座る3人の角度や、背後に置いた鏡によって背面にも自分がいるような構成をとりました。ただ、座る人の座高の高さによって鏡に映る景色が異なるので、見える形がそれぞれ違ってくるなと思っていました。私の体型に合わせてテーブルや鏡をセッティングしていたので、鑑賞者の目線が限られるなと感じていたこともあって、芸術センターでは仕様を変えようと考えていました。

芸術センターではもう少しストレートに、鑑賞者の座高の位置によって見え方が干渉しないようにと考え、背後の鏡もなくしました。食卓に載っている食べ物は、自分の外側の世界のものなので、その存在は「他者の身体」であるし、テーブルを囲む相手も他者であるため、食卓という存在は一時的な共同体を生み出す場だと思っています。対面で飲食を共にすることって、それなりの関係性を結ばないと成立しないと思うんですよね。横並びのラーメン屋さんのカウンターって、横に人がいても一緒に食べるって感じではないじゃないですか。

例えば、同じ鍋をつつくとかもそうなんですけど、体内に摂取するものをその場にいる人間たちと分け合うっていうことは、その場に害をなすものが無くて、安全であるという前提がないと食べられないと思うんですよね。初対面の人と食べることもあると思うんですけど、それは親睦会というような、その場の関係性を「受け入れますよ」という意味が事前に交わされているから成立するのであって、食べることを共有すること自体が、その場で一時的に共同体が形成されることだと思っています。
私は他者と自己との距離について考えているので、家族という小さな共同体はどれだけ近しい存在だったとしても、結局はそれぞれが他者でどこまでいっても人は独りであると思っています。他者がとても遠い存在に感じられるし、共同体を結ぶ他者がいるはずの場所に自分の姿が見えたら「他者」という存在がもう少し近く思える一方で、他者がいるはずの食卓に自分しかいないのはより強く孤独感を突きつけられることでもあるので、本作はそれを再認識するための装置としての作品です。

制作について

《九相図》 作品ディティール

——倉敷さんの作品の画面には多くの亀裂や剥落が生じていますが、画面の表情についてどのように受け止めていますか。傷も入れ方によって前後が出てくるので、時間を取り込むという意味もあわせて、絵画的になっていくのかなと感じました。

倉敷:画面はフラットですが、下地やコラージュしたモチーフを重ねているのでレイヤー的なイメージが強いです。例えば、下地のモデリングペーストをあえてやすらずにその上に転写をかけると、モデリングペーストの凸凹が表層に出てきたり、転写を2層するとうまく重なっている箇所は色が濃くなったりします。色の層が載っているだけなので、転写自体は半透明ですが、地層のような重なり方をしているというイメージはあります。

私の作品は転写という技法を使うので傷が入りやすいんです。技術として削る工程が入るので、少し力を入れただけで画面が剥がれるし、やする工程で傷が入ります。私はあまり器用ではないので、傷が入らないようにすることがうまくできなかったんですね。
でも、私はそこで生じる傷が入ることを良しとしたいんです。人の体についている昔の古い傷であったり、そういうものがあることを見て人間の生々しさを感じ、「あ、生きてるんだな」と思うので、作品にもその生々しさを求めて傷を残すようにしています。

クラックは転写の工程では入らないのですが、自分の趣味嗜好から人の歴史が重なってきたものが好きなんで、あえて残しています。私は、新品のプロダクトよりもアンティークのものの方が好きなところがあります。それは人の背景、歴史的な時間を感じられるからで、そういう表情を作品につけたいと思っていました。そのこともあり、作品の画面にクラックをつけることにしたんです。ただ、作品のコンセプトにあわせてクラックの分量を調整していかないと、傷の印象が強くなりすぎてしまうので、クラックをあまり作品に介入させたくないとも思っています。例えば、今回の作品は「傷ついたものである」とか「歴史を踏んできた作品をオマージュする」といった前提があり、作品の内容と合致していたのでクラックを加えていきました。

——画面に傷をつけるという行為から、画面と身体との関係に関心が向かいます。画面に働きかけた反応、手応えについてどのように感じていますか?また、制作を超えて、何と関わろうとしているのだろうかと気になっています。

倉敷:転写するときに画面をコントロールするので、手応えは重要視しています。画面を削りすぎてイメージが見えなくならないようにする部分もあれば、大きく削れてほしいところを強く擦るときもあって、手加減をして調整しています。ですが、その場の出会いも大切にしているので、基本的にはコントロールせずに表層から出てくるものを受け入れています。そこで起こった現象を受け入れるといったイメージです。その後、画面を調節するために、手の力加減で傷を入れていくというスタイルです。

《Grave#59》作品画像

倉敷:制作の向こう側にいる鑑賞者の存在を考えて作っています。自分の制作が自分の存在を他者に固持する、作品は他者と関わるための装置であり、他者と自分の中間に置こうとしているからだと思います。

インスタレーションや鏡の作品(《わたしたちは家族》《光》《距離e (millefeuille ~ KISS)》《距離(見つめ合う)》)は、他者と自分が関わるためのもので、パフォーマンスはもっと直接的に他者と関わるためのものですね。
作品はコミュニケーションを取るためものと考えています。墓の作品(《グレーヴ》)は私と作品を購入した人が「墓を所持する」という状況から関係性が生まれるもので、他者と関わり合いを持つために作品があるといった状態です。 大きな作品を制作する場合はピラミッドを作るような気持ちでやっていて、ピラミッドのような大きい墓を作ることで、自分の存在を他者に知らしめるという気持ちで制作しています。

——他者と自己の距離について、感じていることを聞かせてください。

倉敷:他者の死はどこまでいっても他者の死だし、父親や母親、肉親やパートナーも含めて、その人の痛みはその人のものでしかなく、共有できることはないほどに、他者と自己が決定的に違うと思っています。

他者と自己が違うという距離感や、様々な環境の人たちが集まって暮らす時に、私たちは他者を見定めてポジショニングをして、他者と自分とのバランスをとりながらコミュニケーションをはかっていると思うんです。でも、早い段階でポジションを決定してくる人、いわゆる色眼鏡や偏見の目で見てくる場合もあって、それはラベリングにも関係してきますが、そこからスティグマを与えられることが私はすごく嫌いなんです。もっと「等身大で見てほしい」というところがあって。でも結局は「等身大で見てあげるよ」というほど人は他者に興味がない。それが悪いかというと、一概には言えない部分もあって、人はそれぞれの環境の中で、様々な状況を背負い懸命に生きているんだろうと思うんです。各々が違う思想をもって生きているので、思想と思想をうまく混ざり合わせることができればいいんですが、なかなかうまくはいかない。一方のバランスを取れば、もう一方のバランスが崩れる。そういうところから、私は人と人は分かり合えないと思っています。

かといって、中間にあるものが大正義かというとそうでもなく、Aの意見が絶対的に正しいかというと、視点の違いによって正義は変わるはずで、マジョリティもマイノリティもどちらが大正義というものではないと思っています。リベラリズムっぽいのですが、他者と自己が絶対的に別物であり、私たちは絶対に孤独で孤立して隔離されたものであるというのが根幹にあって、私はその考え方が子供の頃、結構しんどかったので、他者と自己との関係性に注目しているんだと思います。

——過去のインタビューで「私は物質性に対して信仰があります。作品に関して言えば、作品の重量や厚み、あるいは物質としての強硬さを強調することを好んで制作しています。その物質性が自分の中の信仰というか、制作の信仰に必要だと思っています。」とありました。倉敷さんが考える「制作の信仰」について教えてください。
活動支援生インタビュー Vol.17 倉敷 安耶 インタビュー 「駒込倉庫、共同キュレーション展「(((((,」を終えて」から引用

倉敷:作れば救われるみたいな気持ちですかね。大作を作るときのように、ピラミッドを作る気持ちと似ていると思います。私のための宗教を信仰するために、作品を作っているみたいな感じです。信仰とは、信じれば救われる・救いを信じて祈る行動をしていると思っていて、私は、他者と自分が断絶されている状況に救いを求める気持ちで「生きづらさ」や「もどかしさ」を消化する為、手を動かしたり物を作っています。

大作を作ることで自分の宗教を残せると思っているし、所持しやすい小作品を作ることで誰かのもとに自分のかけらを置けると思っています。パフォーマンスは他者と関わるために儀式的な心持ちで行っていて、インスタレーションは祭壇を作る気持ちで作っています。
誰かが作品の前で心を静かにしてくれたらいいなという感覚的な話で、それらを大きく1つにまとめて「信仰」と言っています。

——レヴィ=ストロースの「料理の三角形」を引用されていることもあり、この世界や現象を構造的に考えていこうとしているように感じました。「共同体としてどう生きていけるか?」ということについて、現在の考え、今後の展望をお話しいただけますでしょうか。

倉敷:構造的に物事を考えているということに、自覚を持ったことがないのですが、言われてみればそうかもしれないです。芸術センターで開催したワークショップのタイトルの「秩序を保つ」を見てもそうですが、構造を自覚的に捉えるというよりは、物事を外側から構造的に捉えないと、思考が保てないと思うので。

「共同体としてどう生きていけるか」ということについて、プライベートと制作の部分で変わるのですが、一環して最近思っているのはアートって閉鎖的なんだなとものすごく感じています。現代美術をやっているけれど、それってとてもハイコンテクストだと思います。もちろん、ハイコンテクストが悪いわけではなくて、先人たちが培ってきた文脈とか歴史とか学問はすごく尊いものだと思うので否定をする気はありません。
ただ、コンテクストを知っていないと美術を楽しめない1つの要因は、美術の教育が難しいことだと思っています。義務教育における美術の授業で、作品を作ることに苦手意識を植え付けてしまっているからだと感じていて、もう少し作品の見方とかを義務教育の時点で共有出来たらいいのにと思うんです。でも、それも教育を受ける人が楽しめるためのものであって、そのあたりにもどかしさを感じています。

《あなたの(心や身体かもしれないし、つまりそれはあなた自身かもしれない。或いはあなたの視点かもしれない、つまりそれはあなたを通して見る私自身かもしれない)》BnA Wall Art hotel にて 作品のサイズは高さ6.08m x 横幅5.8mに及ぶ 撮影: 松尾宇人

倉敷:私は大きい作品を作ることが好きなんですが、大きい作品ってシンプルに「でかい!すごい!」とか「色がきれい!」とか、作品の背景を知らなくても人って感動するんですよね。だから私は大きい作品を作りたがるんですけど、制作にはマンパワーもお金もかかるので、それはそれで権威的だなと思っていて、ちょっとした罪悪感ではないのですが、作るたびに考えています。

プライベートの部分では、美術の業界にいる人って、知らない間に美術業界の人っぽい振る舞いをしがちなのではないかと感じています。美術の世界には大学院生とか高学歴の人が多いじゃないですか、会話の中で言葉遣いが難しいのにそれがふんわり通っちゃうんですよね。美術のことを知らない親戚や友達に私もそういう振る舞いをしてしまって、わからない感じを出したら負けみたいな圧力を相手に無意識に与えていて、ちょっと偉そうなんですよね。
そうではなくて、もう少し砕いて、そういう振る舞いをしないようにしていきたいと思うし、わからないことをわからないって言わせない圧力は、相手にとってわからないことをわからないままにしてしまうと思うので「今あなたが話していることってそもそも何?」みたいな質問をしてもよい話し方をしたいと思っています。

思った以上に、美術の世界と関係がない人に作品の説明をしても伝わってないことが多いんですよね。美術業界では「あぁ、なるほど!」みたいな雰囲気を出されるんですけど、地元の友達とか美術業界じゃない人には説明しても伝わらない。ということは、美術業界で伝わっていることは業界の中でしか通用しない閉鎖的な状況でしかないと実感して、それでは共同体は生まれないと思ってしまったんです。
現代美術には、最近ラフなスタイルを取るブームがあると思うんですけど、ラフだから美術の難しさが消えるかというと、それは全くの別問題で、ラフなスタイルだから気軽に見えるだけで、それって結局より難しくなっているような気がしているんですよね。「煌びやかなスタイルじゃないラフなスタイルの美術がなぜ美術になるの?!」って一般的な人は考えると思うし、ラフにしたからといって美術の権威的なものが消えるわけではないと感じています。
これからも共同体的なところで閉鎖感を砕いていけたらと思っているので、最近は美術関係じゃない人と関わる時間を大事にしようと考えています。

——倉敷さんの思考に触れられる言葉を聞くことができ、今後の展開がますます興味深くなりました。長時間にわたり、お話を聞かせていただきありがとうございました。

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