インタビュー

活動支援生インタビュー Vol.12 渋谷七奈「おはようとおやすみを言うこと」個展「Near and far view」インタビュー

クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。

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Nana Shibuya | 渋谷七奈

渋谷七奈は、1994年宮城県生まれのペインターである。

東北芸術工科大学で日本画を学び、同学の大学院芸術文化専攻芸術総合領域を2019年に修了している。2022年現在は山形に拠点を置く。これまでの作品では、獣や人体といったモチーフの持つ形態の解体と再構築を通じて、外界との関わりによって変容する人間の存在と、その精神性についての制作に取り組んできたという。作品においては、特に背景の地や余白を活かした線的な表現が顕著で、日本画の出自が垣間見えるとともにドローイング的な素朴さが同居している。

渋谷は、大学で日本画の基礎と歴史的な流れを学んだうえで、「日本画をやる」ことから、やがて線を主軸に据えた制作へと焦点を絞る。「(あなたにとっての)日本画とはなにか」という問いを一旦留保することで、課題は個人的な経験に即した別の社会性へと迂回する。アーティストプロフィールに記された人間の変容とは、まさしくそのような個人的関心を絵画平面の問題へと紐付けるものであったろう。

京都での個展「Near and far view」(Artist Space TERRAIN、京都、2022)に至って、そうした個人性はより個別的で率直な性格を帯びている。本インタビューにおいて渋谷は、これまでの「作品をつくる」という意識から離れ、肩の力を抜いて、生活と地続きな制作を行いたいと語る。それは、以前ドローイング群を発表した時からの予感の実りであったかもしれない。しかし、本展の前に大きな転換期があったとも渋谷は話す。

MIMICでは渋谷からの依頼を受け、Artist Space TERRAIN(以下TERRAIN)での個展を訪問した。作家と同世代で日本画を出身とする岡本が、これまでの取り組みと、同展について話を聞いた。

取材・構成: MIMIC
聞き手: 岡本秀(MIMIC)

 

渋谷七奈個展「Near and far view」展示風景

 

作品の表現について

――まず、渋谷さんは、どの作品でも線が非常に魅力的だと感じました。
画面上では特に、線によって描かれたイメージが解体されつつ、複数の図像にまたがって全体に散らばっているような表現が多く見られます。こうした作品はどのような意図で制作されているのでしょうか

渋谷:全体的にごちゃっとした感じになってると思うんですけど、私の絵画をそのまま整理整頓して描くと、すごくアイコニックで、キャッチーで、分かりやすい画面になると思ってるんですね。
私は公共空間にあるような、わかりやすい指示に従ったほうが、生活はしやすいと思ってるんです。そういう公共的なものが逆に崩れて、模様のような何かになろうとしてるということが、表現的にしっくりくるんですね。
そこから、わかりやすいモチーフが解体されて、何かに変容している状態を、線の表現で扱うようにしてきました。

――公共空間にあるようなわかりやすい指示とは、どのようなものですか?

渋谷:例えば横断歩道の人物のマークや「止まれ」などの交通標識とかですね。美容室のはさみのマークとか、コンビニのロゴマークとか、わかりやすいアイコン的なものです。普段目にする公共的なものって、単純な記号になっていて、遠目から見てもわかるようなものじゃないですか。そういう公共的なアイコンに、私は安心する。でも、それって当たり前のようになっているけど、自分の住んでる社会の中でしか機能しないし、そもそも知識や経験則がないと意味がわからないものでもありますよね。

例えば《Who?》という作品には、ウサギや草、フェンスといったモチーフが出てくるんですけど、それらの形態が少しゆがんだり、へこんだりを通じて、分解されていたり。人の顔が、あるようでなかったり。いくつかのモチーフが、解体を通じて、わかりやすい形から少しずれて、それが空間の中でまた、ぎゅっとなろうとしてる。というか、なんて言うんだろう、縮まりつつある。お互いの距離感が縮まりつつあって、新しい図像に変化しようとしてるっていう感じで描いていますね。

――整理すると、渋谷さんの作品では、公共空間におけるアイコンのように、記号的な図像が、絵画平面上で解体され、いくつかのモチーフと絡み合いながら再構築されるといえるでしょうか。渋谷さんは、わかりやすい記号に親しみを覚える一方で、そうした図像への理解が文化的に構築された知識であるという点にも留意していると。線が解体されることで、図像が明示的な意味から脱け出していく表現に、そのような関心が伺えるようにも思えます。

図像の記号性の延長で、日本画専攻における写生教育のことも思い出しました。写生教育では、例えば、ひまわりを描くとして、標識や絵文字だとこんな形だけど、実物はこういう表情、匂いや気配があるという風に、記号的な対象に先だって実物の情報量を大事にする考え方があると思います。ものを繰り返し写生し、自分なりに解釈して作品に落とし込んでいく価値観に対して、むしろ記号的な対象を積極的に扱っていきたいというような意識があったんでしょうか。

渋谷:そうですね。例えばですけど、実際生活をしていて、人間の顔をとても細部で見ることって、よほど親密度がないかぎりないと思うんですよね、普段はある程度の距離感をもって見てるから、人の顔の認識って曖昧じゃないですか。
逆にシンプルな主張、「メガネをかけてる人」とか「髭が生えてる人」、「髪の毛がすごく長い人」、そういうパッと思いつくイメージの方が、人に与えるイメージが強いと思っていて。端正にちゃんと物を見るよりも、一瞬のイメージの方がその人に与える印象が強い。だからこそ、公共的なアイコンの方が、ものを見た時の一瞬のキャッチとして残りやすいのかなって。

――記号的なものをなるべく記号的なまま使って、逆にそれを再構築していくような。

渋谷:そうですね。画面のばらつきも、人間的なばらつきというか、ゴミが散らかってるような感じなんです。機械的なモザイクじゃなくて。その方が、私が表現するやり方としては合ってる。

――ちなみに、写生はされますか?

渋谷:写生は……、学部時代はしてました。ちゃんとしてました(笑)そんなに上手なものじゃないですけど。今は、写生するとしても、端正にディティールを写し取るようなことはしないですね。

私のゼミの主担当だったアーティストの水野健一郎さんから、線の描き方とか、ものの捉え方について、「君は端正にモチーフを描写することに違和感がないと思うけど、他に複雑な描き方があるはずなんだよ」と言われたことがあるんです。「木だったら、三角だけで木って表記できる場合もあるじゃん。線や太さで木の描き方も全く変わるし、それで人に与える印象もだいぶ違う訳でしょ」と。だから、リアリズムだったり、写生だったり、端正に描くことももちろん大事だけど、絵を描くことに表現の可能性を感じるのであれば、もっと自由にやった方が良い。というか、自由そのもののパターンをたくさん組んだ方がいいって言うんですね。写生的な描き方は、逆に頑張ればできちゃうと思うんですよね。

だから、頑張って描くよりも、なんでこんな描き方をするんだろうって思うような描き方の方が絵画的で、絵画だからやれるんじゃないのかなというのがありますね。
写生もすごく大事だし、リアリズムも私は好きなんですけど。自分の描き方としてはそうなのかな。

 

《Who?》: H1600×W2910×D35(mm)、パネルにアクリル絵具、鉛筆、木炭、スプレー、ペン、2021年(参考作品画像)

デジタルと線

――線の表現について、もう少し深くお聞きしたいです。渋谷さんの作品の中には、ピクセルのグリッドや90年代頃のゲーム画面など、デジタル環境に特有の質感を連想する線が見られます。デジタル環境とご自身の制作の関係について、考えていることがあれば教えていただけますか?

渋谷:水を飲むのと同じくらい自然な感覚だと思っています。例えば、スマホだって皆いじるじゃないですか。語り尽くされてる部分でもあるし、私はデジタルツールをナチュラルに使っていて、それを別に悪いことではないって思うから、関係としては水飲むのと一緒って感じかなと思ってます。

――なるほど、実際の作品からも掘り下げてみましょう。2017–2019年頃の作品(特に《Lucky Dog》《Lucky Boy》《Lucky Girl》(いずれも2018))では、昔のゲームやCGのイメージを連想します。

 

左から 《Lucky Dog》: H455×W385×D20(mm)、パネルにアクリル絵具、ペン、2018年 《Lucky Boy》: H530×D455×W20(mm) 、パネルにアクリル絵具、ペン、2018年 《Lucky Girl》: H530×D455×W20 (mm)、パネルにアクリル絵具、ペン、2018年

 

こうした表現や、マウスで線を引いたときを思わせる原理的な線が興味深いです。今の技術でデジタルをモチーフに絵を描くとすれば、もっと高精細に出来るし、貧しくない質感にもできるじゃないですか。

渋谷:面白いなって思うんですけど、今のデジタル的なものを使う人って、『クラッシュ・バンディクー』(SCE、1994)や『バンジョーとカズーイの大冒険』(任天堂、1998)だったり、あるいは『MOTHER』シリーズ、ゲームボーイの『ポケットモンスター』シリーズのように、リアルな表現がしづらかった時代のデジタル的なイメージを引用することが多いですよね。私たちの幼少期って、それが憧れだったんですよね。それを現実に持ってくるのが憧れだったからこそ、今はノスタルジックな対象になる訳じゃないですか。

それが現在のフォトリアルな表現でリメイクされると、すごく高解像度で、動物の毛並みとかもついてきて……、でも私たちが求めてるのは実はそこじゃなくって。フィクションのチープさが私たちの馴染みだったし、作品の表現に出てくるグリッド的な手法も、私の中での懐かしさが含まれていると思っています。

――もともとの憧れに従ってると。

渋谷:そうですね。そうだと思います。やっぱりガタガタのCGとか、大好き!(笑)

チープなモチーフほど、私たちは創造性を膨らませられると思うんですよね。それが私の、私たちの世代の幼少期だったし、たぶん上の世代もそうだったと思うし。だからこそ、ゲーム機のスペックが低くても、自分たちの好奇心で、創造性を膨らませることがたくさんあったんだろうなと思いますね。ゲーム、漫画やアニメに、幼少期の私はだいぶ救われたと思います。もともと寡黙で、今みたいに喋る子じゃなかったし。暗い幼少期を過ごしてたので。ゲームって、旅をして夢があって、何かがあった時にこう対処すればいいんだよって助けてくれる人がいて、救いですよね。

フィクションがリアルに介入することは絶対にないけど、フィクションが支えにはなるじゃないですか。幼少期からの経験が元にあるなとは思ってます。絵画も、実体を掴んでいるようでリアリズム……、例えば「リアリティ」って言葉があるんですけど、リアルじゃなくて「リアリティ」って、何かしらの解釈を通じて、つまんだものじゃないですか。絵画やアートって、「リアリティ」をどう見せるかという、フィクションの話なので、やっぱりそういう現場が好きなんだなって思います。

 

色彩

――色彩に関して、発想の元になってるものはありますか?

渋谷:色は、もともとモノクロの画面が好きで、なぜかというと端的だから。色彩があると、「あ、このイメージの季節は春なんだ」といった空気感が先に来ますよね。そういう空気感を出さないことで、モノクロの画面から想像できることが無限大にあったんです。でも今は、制作と生活の足並みを揃えてやっていくのが性に合ってると思って。自分の感じた色彩も少しずつ入れていっていいのかなっていう段階に入っている感じがしていて、昔よりも色彩を入れてるなと思います。すごくまばらで、限定的にしか入れてなかったりするんですけど。

――先ほどの話でいうと、記号を記号的に扱って、それを解体するという話でしたが、逆に色になると、記号的でない方が好ましいということでしょうか。
例えば桜なら、ピンクを入れたら桜になるじゃないですか。そういう風にわかりやすい色の表現はしない?

渋谷:作品では、そういった表現はしないかなと思います。絵画の中で、自分と分離しているけど、近いような、フィクション要素が欲しいんですよね。たとえ入れるとしても、限定的になるかなって思います。わかりやすい色彩に特別メッセージ性を含めていたりしない限りは、入れないかな。

――モノクロも古いCGも、情報が欠如していることで掻き立てられる想像力の問題といえそうですね。

渋谷:そうですね。絵画もインスピレーションを起こすようなものが好きだし。

――例えば、どんな作家が好きですか?

渋谷:私はウィリアム・ブレイク(1757–1827)が好きです。複雑なものを簡単に見せようとして、結局複雑になる、みたいな描き方が好きですね。ウィリアム・ブレイクは、現実で起こったことをそのまま描くというよりは、自分の中で咀嚼して、あたかも童話のように描いたりする作家で、そこが好きだなって思いますね。いつ見ても、その日の気分で見え方が違っていて、本当に好きです。

ドローイングと作品の違い

――油彩や膠彩ではなく、アクリルやペンといったドローイングに扱われる素材を作品にそのまま用いてますよね。ドローイングと作品にはどんな違いがありますか?

渋谷:私の中で、ドローイングと作品に大きな差はないと思っています。ドローイングは作品と地続きの存在なので、相互関係にあります。
今はペインティング作品とドローイングを分けていますけど、ドローイング群を作品として発表したこともあるし、どうなるかはこれからのテーマ性で分かれるかなとは思います。
今の私の段階としては、ドローイングは、B5とかそういう規定サイズの有りものの紙に、ペンと絵具だけで描いたもの。作品の場合はサイズ感から自分で決めて、下地作りも全てやります。
ただ、ドローイングは実験的に展示や媒体の形式を決められるけど、ものとしてのあり方がもっとかっちり決まっているものが「作品」という感じで扱っています。

 

《2019.10.09》: H210×W130(mm)、紙にアクリル絵具、スプレー、2019年(参考作品画像)

《drawing on campus 03》: H180×W140×D20(mm)、パネルにアクリル絵具、鉛筆、木炭、スプレー、ペンキ、2022年

ステートメント

――表現上の話をお聞きしてきましたが、話題を変えて、渋谷さんのステートメントについてお聞きしたいと思います。特に、人間の存在と精神性について、獣のモチーフを交えて度々書かれていますが、この話は今も有効なものですか?

渋谷:今回の個展は、別で続けていたドローイングから発展したものとして捉えているので、ステートメントの話も並行してありますが、あくまで別テーマという感じです。

――では、これまでの流れの一端として伺います。「外界との関わりによって変容する人間の存在と、その精神性」について、考えていることをお聞きしたいです。

渋谷:個々のバックボーンもあるとは思ってるんですけども、何か言いようのない感情に振り回されるときに、精神の巡回の方針が変わったりするなって思うんです。以前、「自分の今までのコミュニケーションっておかしかったんだ」と気が付いて、自分のアイデンティティが分解されるという体験があったんですよ。
その時、悲しみとか怒りとかそういう喜怒哀楽を乗り越えて感情がどこかへ行ってしまった感じがして、言いようのない、喜怒哀楽にも収束できない感情の揺らぎが、これからもどんどん起こるんだろうなって予感があったんですよね。
頭で一旦考えて、落とし込むことで、感情をきちんと整理できることって重要だと思うんですけど、そうした収拾がつかないほど、自分の感情の落としどころが無くなるってことが、私は実際に起きたなっていう風に思ってて。

私たちは、結局動物的なものではあると思うんです。
春になったら気分が良くなるし、曇りだったら少し気分が落ち込むし、気分の浮き沈みが夜行性の人もいるし。
私の好きな写真家の志賀理江子さんが、以前「ヒューマン・スプリング」(東京都写真美術館、2019)という個展を開催されていたんです。
その展覧会のステートメントで、志賀さんは「春になるととても元気になるけど、冬になると気分が落ち込んでくる。私たちは所詮、人間だから、春になって芽吹くのは当たり前なのではないか。」と語っていて、私は凄く感銘を受けたんですけど。
例えばエアコンを使ったりして、自分たちの生活しやすい環境にしてるだけで、それを抜きにしたら、所詮人は動物だと思うんですよね。

――人間は、共同体で生きる文化的な存在である一方、人間の作った環境を取り払ったら、季節や天候によって気分が左右されたりする、動物的な存在であると。

渋谷:だから、人間は公共的なものに守られているようで、どこか守られていないような気もする。
5月あたりになったら、天気が悪くなって、春の元気な気分がだれてくる。でも、生活していこうと思ったら社会人として働いて、頑張らないといけないですよね。
季節や天気といった自然の環境に合わせて、肉体的にはしんどいと訴えているけれども、社会的にはこうしないといけない。そういう決まりごとに沿って、多くの人の思想が、同じ方向へ突き動かされているというか、社会を成立させるために、動物的な感覚よりも社会の維持を優先することを迫られているのかなと思います。

人は、生物として、動物として生きているから、勘を嗅ぎとる力があるじゃないですか。
自分の「本当はこうしたいな」という、肉体の直観的な意識を排除していくうちに、元々備わっていた動物的な勘が摩耗していっているのかなと思っています。
そうして人間の動物的な勘が失われつつある状況を、私は進化の過程としてとらえているところがあります。絵画で、獣や人物のモチーフを解体したり、公共的でアイコニックな図像を少しゆがめたりするのは、そうした進化の過程にもなぞらえられるなって思います。

――公共的なアイコンを解体し、再構築するという最初のお話にも繋がってくるんですね。
理性的に思考できることが、人間的で社会にとって良いとされやすいけど、そうすることで、自分の素直な感情にフタをしてしまう場合もありますよね。
人間にとっての変容の兆しとは、そうした理性的思考ではどうにもならない、感情の挫折の機会であるようにも思えます。

渋谷:そうですね。選択肢としては色々あると思うんです。たとえば、自分の動物的な勘に従うことも正解だと思うし、倫理的で社会性を持って生活を成就するのも正解だとは思うんです。でも、実はその選択肢をどっちも持っているよねということを示したいなっていう気持ちがあるんです。動物的であっても、理性的であっても、どちらも正しいと思います。でも、そこは、曖昧でもいいと思うんですよね。個人的には曖昧な状態の方が人間らしいと思うんですよ。

 

《おやすみ〜(AM01:05)》: H530×W430×D30(mm)、パネルにアクリル絵具、鉛筆、木炭、スプレー、ペンキ、2022年

今回の個展について

――最後に、個展のことについてお聞きします。
2018年以来、久々の個展ということでしたが、今回はどうしてTERRAINで個展をしようと思ったんでしょうか?

渋谷:TERRAINは、3人のアーティストが運営するアーティストランスペースという形で、アトリエ兼展示会場として使えるようになっている場所です。今回はアトリエスペースを利用している友人の一人に、個展の企画を持っていきました。
今回のテーマもそうなんですけれども、個展は、大きなギャラリーでなくても、見る人が見てくれる場所でいいかなっていう気持ちが強かったんですよね。
自ら行かないといけない、分からないぐらいの情報の少なさの方が、今回のテーマ的にも個展的にもやりやすいなという気持ちがあったので、TERRAINをお借りしました。
あとは、同じアーティストで同世代の人たちの運営する場所でやりたいなという気持ちもありました。

――今回の個展ではどんなことを試みられていますか?

渋谷:今回の個展では、もっと自分の足取りが見えるような、肩の力を抜いて出せるようなものを出したいという意識があって。2018年から続けているドローイングと地続きなものを展示しています。
ドローイングから出発して、それを作品に落とし込むっていうやり方で、ラフな自分の作品を見せるように試みた感じですかね。
今までは、画面的には完成されたもの、ペインティングとしての「作品」を展示する意識が強かったです。すごく気張ってた、というか作家として作品を見せるとか、そういう気持ちが強かったんです。だけど、生活に余裕がないと、制作に大事な軸を持ってやっていくのは難しいですよね。ドローイングを発表し始めてから、これから制作を続けていく上でも、もうちょっと肩の力を抜いてやった方がいいなと思い始めて。
今までのステートメントや作品の話をしたとき、公共性や動物的な勘といった、人間心理学みたいなことを話したと思うんですけど、今はそれよりも生活の中での地続きな話をしたいなというのがあって。だから、今回の個展はテーマを分けてやってるって感じがします。

――大学を卒業したことも関係があるんでしょうか?

渋谷:関係ありますね。大学には、美術の「学」が必ずあるじゃないですか。でも、そうした「学」のある制作と実生活があまりにも分離し過ぎてるんですよね。卒業したら、人によってはそうした学びと全く関係ないところに放たれたりもするわけで。
大学を卒業して作家をやっていく中で、美術的な学びに基づいた作家性やスタイルを持つっていうよりは、もうちょっと日常に即した話をしてみたいなっていうことがありました。なので、大学卒業してから変わったことはあると思いますね。
作家というか、作る人って、普通の人と目線が違う別人類のような感じで取り扱われやすいと思うんです。でも、作家はそういうものではないんだよっていうことを、卒業してより強く感じたんですよね。税金で悩まされるし(笑)。

――それでは、これまでの制作から大きく変わった部分では、「作品を作る」意識から、「ラフに制作を見せていく」スタイルに変わってきたということがいえそうですね。
今回の展示作品は、具体的にどういうテーマの作品を展示されていますか?

渋谷:今回は、一般に市販されているような普通のキャンバスにドローイングしてるものが主になります。中でも、大きな作品《おはよう(00:00)》(2022)が、メインの作品です。
個展のステートメントでも書きましたが、私の中での転換期があって、それが個展全体のテーマになっています。

――それはどのようなテーマでしょうか?

渋谷:例えば、日常の中で、おはよう、おやすみって、習慣的に言いますよね。それって明日も目覚めるっていう希望的観測というか、明日も起きるんだろうな、明日も寝るんだろうな、みたいな感覚で言うと思うんです。そういう個人的で習慣的な儀式に、私たちは意外と救われてるところがあるんじゃないかなという気持ちがあって。

個展のステートメントでは、ネアンデルタール人が、もう目を覚まさない人に花を手向けていたというエピソードについて言及しています。花を手向ける行為によって、原始人も死者に対する愛情を持っていたとか、いろんな憶測があるんですが、とても太古の話なので、雑草が間違って紛れてしまっただけの可能性も大いにあるんですよ。でも、私個人の気持ちとしては、個々人の愛や、執着といったエゴイズムが、大昔から循環していることを信じたくなって。

私の身に起きたことも踏まえて、花を手向ける行為が、おはようとおやすみを言うことにつながってるのかなとか……、目覚めることを願ってるのかもしれない、目覚めない人におやすみを言うために、花を置いたのかもしれないとか。
そういう風に考えていて、個人的なエゴイズムが、人間らしくてすごくきれいなものだなって思ったんです。それが、いびつでも、儀式的で形式的なものでもいいとは思うんですけど、それがあるおかげで、生活ってものが実は回ってるんだなという風に思って。

――先ほど、「ラフに作っていきたい」って話をされていたんですけど、今のお話を聞くと、それは、誰かにおはようやおやすみと言ったり、花を手向けたりするみたいに制作をしていきたいということにも取れます。

渋谷:そうだと思います。今回の個展は人ひとりが思う、他者に対するエゴイズムが制作のテーマでした。人の評価を抜きにして、これが自分の中で大事なことなんだと思います。その気持ちが別に歪んでてもいいと思うし、無理に話さなくても、内に秘めてればいいのかなとも思っていて。今回、すごくクローズドな展覧会にして、個展会場をここに選んだのも、ステートメントの文章を、話し口調で、夢のような現実のような話にしたのも、ドローイングを起点にしたのも、そういう自分の中で大事なことを、展示にしたかったからだと思います。

 

《おはよう〜(00:00)》: H1455×W894×D30(mm)、パネルにアクリル絵具、鉛筆、木炭、スプレー、ペンキ、2022年

《おはよう〜(00:00)》(部分)

 

展示会概要
渋谷七奈個展「Near and far view」
2022年4月20日(水)–24日(日)
Artists Space TERRAIN(京都)

渋谷七奈 Shibuya Nana
1994年、宮城県生まれ。2022年現在、山形を拠点に活動を行う。
2017 東北芸術工科大学 美術科 日本画コース 卒業
2019 東北芸術工科大学 芸術文化専攻 芸術総合領域 修了



MIMIC
2019年、アーティストの岡本秀(日本画・マンガ)、熊野陽平(現代美術)によって発足したリサーチプロジェクト。現在活動を続けるアーティストのリサーチとアーカイブを通じて、これからの美術史における作者や作品、地域の語り方を探る。2021年度より、京都市立芸術大学芸術資源研究センターの重点研究プロジェクトとして採択される。主な展覧会に2022年「MIMICのリサーチ・アーカイブ pt.1 石井海音」(イムラアートギャラリー、京都)がある。
ウェブサイト: mimic-art.net

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