インタビュー

活動支援生インタビュー Vol.18 やまみちやえ インタビュー 「江丹愚馬」を終えて

クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。

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YAE YAMAMICHI | やまみちやえ

2021年12月10日(金)KAAT 神奈川芸術劇場にてDaBYパフォーミングアーツ・セレクション2021が開催された。ベテランから新進気鋭の若手まで7演目が発表された本ショーケース公演の中で、DaBYレジデンスアーティスト橋本ロマンスと作曲家・太棹三味線演奏家のやまみちやえの共同制作『江丹愚馬』が上演された。

満席の会場で、演目の開演を待つ。舞台奥の壁には蛍光灯が設置されていて、青白く光り無機質に壁を照らしている。舞台上手(観客から見て右側)に濃い赤色の小さなステージが置かれているが、それ以外は何もない。この赤いパンチカーペットは「緋毛氈(ひもうせん)」と呼ばれ、学校の卒業式やお祭りなどの催し事で頻繁に使われ、日本で生活をしたことがあれば必ずどこかで見たことがある「赤」であると思う。その赤い舞台が、ガランとした空間にもの寂しく置かれる空間は「不要不急」と言われ停止したパンデミック禍の演劇文化を象徴しているようにも見える。

小鼓や締太鼓、三味線などを手にした奏者が現われ、赤いステージに座り語りが始まる。どこか聞いたことのある邦楽の音に合わせて、舞台奥で蛍光灯に照らされながら3人のダンサーがゆっくりと歩きながら舞台に現れる。幕が開けた。

このインタビューでは『江丹愚馬』において音楽・詞章を手がけた財団3期生のやまみちやえに、本公演の内容や本人の制作における姿勢などについて話を伺い、まとめたものである。

話し手:やまみちやえ
聞き手・書き手:野村善文
※このインタビューは2021年12月に実施されました。

Photo by Yulia Skogoreva

えにぐまって、なんぞ?


――『江丹愚馬』の公演お疲れ様でした。全体の構成のメリハリや、ダンサーだけでなく奏者も巻き込んだ身体表現や、音楽も含めた全体の抑揚がとても心地よく、劇中に涙するほど感動しました。

やまみち:わーほんとですか!嬉しいです。

――ただ劇中の語りが古語や独特の言い回しで展開されるので「えにぐまの公演って、結局なんぞ?」と思うところも正直多くありまして笑。意味を求めるのも野暮ですが、色々と根掘り葉掘り聞ければと思います。まず、今回の作品では「大鯰(おおなまず)」がモチーフとして扱われていました。どういう経緯でこの「ナマズ」に行き着いたのか、教えてください。

やまみち:演出家・振付家の橋本ロマンスとの共同制作が決まったタイミングで、「ゴジラみたいな古生物が地底に眠っていて、それが目を覚ますことで、昔と今が繋がるみたいなことをやりたい」っていうアイディアをもらって。「地底に眠ってる何か」というところから単純に「古典にナマズの伝承があるんだけどどう?」ってロマンスに提案しました。

――地下でナマズが暴れたことで地震が引き起こされていて、それをある神が封じ込めたといわれる伝承ですよね。

やまみち:そうです。江戸時代後期にナマズと地震を結びつけた災害瓦版が出版されるわけですけど、最初は都市を破壊する疫病神として描かれます。地震の元凶であるナマズは神によって封じられる、退治される存在です。でも、安政の大地震後には、そのナマズが倒れた家屋から人を助けたり、金銀をばらまいて世直しを手伝ったりする「救世主」みたいな描かれ方をされ始めて、その瓦版が流行する。私はその両義性が面白いと思っていたんですけど、ロマンスと話をしていくなかで、「地震から復興までをナマズ自身の自作自演」として捉えると古典から現代を貫くテーマになるのではないかというところに至りました。

――もう少し詳しく聞きたいです。

やまみち:例えば「アマビエ」ってここ数年で急にメジャーに知られるようになったじゃないですか。コロナウイルスが流行り始めた時に「アマビエの疫病退散!」みたいな謳い文句で、感染症に打ち克つためのシンボルとして引っ張られてきた。私、幼い時から水木しげるさんがすごい好きで、妖怪という存在に自然に触れる機会が多かったんですけど、肌で感じてきた「アマビエ」の印象とコロナ禍で登場した「アマビエ」から受ける印象が別物みたいだなと思っていて。私は自分の作品に必ずしも政治的なメッセージや社会性がなければならないとは思っていないのですが、今回は「アマビエ」に抱いた違和感も手伝ってか、ナマズの伝承を「自作自演」という切り口から扱うことでリアルタイムな社会についても考えられるかなと思って。

出典:『肥後国海中の怪』(京都大学附属図書館所蔵)

――なるほど…ただ作品のを鑑賞する中で、社会性や政治などについては直接的には受け取りませんでした。具体的にどんなシーンや仕掛けに表れてるんですか?

やまみち:最初は詞章(歌詞のこと)の内容が伝承や昔話になっているんですけど、だんだんとニュースを報道していくっていう流れになっています。

――「報道」ですか?

やまみち:義太夫節の本質のひとつであるジャーナリズム性に注目したシーンです。例えば、江戸時代には心中事件が起きたとき、その数日後に浄瑠璃として上演していたといわれていて、今の私たちで言うワイドショー的な側面とか、ニュースとしての報道の役割も担っていました。この義太夫節が持つジャーナリズムの視点を生かしたい、とロマンスが提案してくれて、改めて「出来事を淡々と伝える」ことと音曲のバランスを意識しました。劇中の報道のシーンでは、長岡京遷都から元暦の大地震や百姓一揆、江戸時代の振袖火事、天保の大飢饉、世界大戦、高度経済成長、東日本大震災を経て、現代のパンデミックまでを描いています。すごく長い絵巻物を一気にスクロールして広げていくようなスピード感を意識して曲を構成・作曲しました。

――なるほど、そういうことだったんですね。その後も様々なシーンが流れますが、現在の社会についての描写は他にもあったのでしょうか?

やまみち:そうですね、例えば赤紙が渡されて、奏者が少なくなっていくシーンがあったと思うんですが…。

――あったあった。1人ずつ減っていくシーンですよね。

やまみち:直接的に戦争を描くシーンではないのですが、人の魂を慰めたり救いになるはずの音楽や娯楽が非常事態下で真っ先に制限されたことについて描こうとしています。演奏中に強制的に楽器が取り上げられていき、どんどん音数が減って最後には1人になる。これも、ある意味コロナ禍を表すようなシーンだったとは思いますが、戦時中の娯楽統制をモチーフにした場面とも捉えられますし、単純に音が減っていってなんか寂しいな、と思っていただくのもいいと思います。

――なるほど。本作品を鑑賞した印象として「わからなくても面白い」というところに魅力を感じますが、同時に解説を聞くと、また全然違った見え方がある気がします。

やまみち:あまり種明かしをするタイプではないのですが、実は色々と盛り込んでいました笑。

Photo by Yulia Skogoreva

時空の旅をする

――先程の音が減っていくシーンですが、最後はやまみちさん1人が取り残されていたと思います。座面に敷いてあった赤い布をズルズルと引きずりながら、その布を脚立にかけて屋根のあるシェルターのように見立て、そこで1人弾き語りをしていました。

やまみち:どんな乱世であっても今を見つめ、語り続けないといけない、そしてそうやって伝えた人達がいたからこそ「物語」が残ってきたというコンセプトで、「平家物語」を伝えた琵琶法師たちをイメージしながら作りました。直前の場面で弦を弾くためのバチもなくなってしまっているので、素手で弾き語りをしています。

――センチメンタルで素敵だと思いましたが、蛍光灯の舞台とグレーでオーバーサイズのコスチュームの今っぽい雰囲気が手伝って、琵琶法師よりも「あいみょん」に見えて実は「裸の心」歌わないかな?と内心思いながら見ていました。

やまみち:、その感覚嬉しいです!結構そうやって現代の曲と古典を繋いで考えている部分も多くありますよ。

――え、それはどういうことですか?

やまみち:私、和歌が好きで、万葉集とか古今和歌集とかを気軽に読むんですが、好きな和歌を読んでいる感覚と好きなアーティストの曲を聞いている時の感覚は一緒なんです。だから和歌集を読んでいる時に、この恋の歌はaikoだなとか、これはあいみょんだなとか思って。そういう風に私の中では古典と現代のポップスがシームレスに繋がっている感覚があります。詠み人知らずの歌から六歌仙、観阿弥・世阿弥、近松門左衛門、松尾芭蕉、尾崎放哉、いろんな人の身体を通ってことばが現代まで来ている。その先にあいみょんとか自分の作品がある感覚です。

――現代人の感覚からすると、過去とシームレスにつながるというのは独特な感覚な気がしますが、それはなぜなのでしょう?古典的な技法や音楽の作り方と関係があるのですか?

やまみち:日本の古典の作劇手法の一つとして「引用」が挙げられます。有名な作品の一節を引用して、主人公の心情を表したりする。特に義太夫節には、こういう心情のときはこのフレーズを、この情景のときはこのフレーズを使う、といった音楽上の約束事があります。決まったフレーズで進行するから、オリジナリティがないと揶揄されることもあります。でもそもそもオリジンって起源っていう意味なので、そう考えると逆に、作品の種になっている先行作品をオマージュできるってとても豊かなことだと思っていて。自分はこの物語をこう読みかえるとか、この物語とこの物語を重ねてみるとか、あえて今、流行りのこの話を足してみるとか、時空の旅をして、作品を作る感覚に近いです。

――そう思うと、先ほどの報道のシーンの話も「コロナの話」を断片的に切り取ることもできるところを、長岡京遷都から遡ってしまう、2分少しの歌で軽々と時空を行き来する姿勢が印象的でした。

やまみち:漠然とした話になるんですけど、鎖国が終わってから200年しか経ってないのに江戸時代のことはすごく昔のことに感じます。でも、その前には1800年分の歴史があって、さらにとてつもなく昔の、昔すぎる出来事を遡れる。そう思うと、現代から過去(古典)を見るときの時間感覚が全然違う気がして。長い地続きの中で捉えると、報道のシーンで扱った震災や飢饉などの出来事は一瞬のことに感じられたりするかもしれない。あっという間の出来事なんです。その大きな時間軸で捉えることであいみょんの歌もaikoの歌も古典に対するアンサーソングになるって思えるし、自分自身の作品もそうでありたいと思ってます。

Photo by Yulia Skogoreva

見た人を幸せに呪いたい

――インタビューするにあたって参考図書をいくつかいただいて、その中に「乱舞の中世」という書籍があったと思います。

やまみち:あ、読んでくださったんですね!

――その本の中で、室町時代の猿楽という芸能について記載がありましたが、簡単に要約すると、猿楽は拍子が初めて導入された芸能で、当時の鑑賞者はそのリズムやビートを感じて「楽しくてたまらなくて、体が動いちゃう」体験で衝撃だったといった描写がありました。現代的にいうと「アガる」みたいな感覚なのかと思いますが、『江丹愚馬』の公演でも似たような印象を抱きました。

やまみち:それは、どういう意味ですか?

――よく意味はわからないけど、体が乗ってきてしまうという感覚でした。もっというと、難しいことなんて気にしないから、踊らない?と言われているような体験でした。

やまみち:なんとなくわかる気がします。ちょっと話がずれるかもしれませんが、私は古語をとても愛していて、古語をチョイスするこだわりはとても強いです。例えば同じことをいう10個の異なる表現から一つを選ぶ時のこだわりだったり、なぜこの浄瑠璃作品のこの部分を引用したかの理由だったり。一つの単語、一つのフレーズについてみっちり語れるくらい愛をこめて作ります。でも、そのこだわりは聞くひとには共感してもらえなくてもいいって思っていて。現代語では聞いたことのない響きが面白いなとか、知らないけどなんか気になるとか。意味や背景を抜きにしても、古語はそういう面白がり方もできると思っています。知れば知るほど古典の世界は楽しいですが、私の作品の中ではお散歩してたら面白いお店を見つけた!くらいにふらっと出会ってほしいです。

――あまり押し付けたくない?

やまみち:押し付けたくないっていうか、それぞれがいいなと思ったところを好きにあたためてほしいな、みたいな。そういういいなと思えることやそれぞれの楽しみ方に発展するようなフックを作品のあらゆるところに仕掛けることをかなり意識しながら詞章や音楽を考えています。なのでここが掛詞です、ここが縁語になってます、といったアカデミックなことはあんまり分からせようっていう態度ではないです。「私は古語で遊んで楽しいよ!あなたはどう?」みたいなスタンスなので、これだけ聞くとちょっと無責任だと感じるとは思うんですけど。でもそれがさっきおっしゃっていただいたような「難しいことは気にしないから踊らない?」に繋がるような気もします。

――関連するところでいうと、語り方が脚立の上に登って見得をするシーンで、自然と観客が拍手したシーンがありました。どこか地元のお祭りのような朗らかで自然な盛り上がりでした。でも、あれがもし「この屋号をこのタイミングで叫ぶ」とかのお作法がある状態だったら、拍手するのが怖かったかもしれないです。自由に楽しめる雰囲気がありました。

やまみち:嬉しいです。最近、ずっと線引きについて考えているんです。

――「線引き」?

Photo by Yulia Skogoreva

やまみち:別の作品なんですけど夏に盆踊りをモチーフにした作品に携わることがありました。曲を書き上げた後も「超古典っぽい曲調で書いちゃったな」とか「古語、わかりづらいかな」とか悩み続けていたんですけど、ある日参加していた子供達が休憩中に普通に曲を口ずさんでくれていて。気にしすぎていたのは私の方だったなと目からウロコでした。そういう経験があって、もしかすると古典と現代に垣根を感じて線引きしているのって、往々にして作り手側で、受け取り手は実はそんなに気にしていないのかもと感じました。

――線引きのない自由さ、ということでいうと、作品の中でラップや英語で歌うシーンなどもありましたが、それはすごく珍しいことなのですか?

やまみち:邦楽というジャンルの中でよくあることかと言われれば珍しいことだと思いますが、私的にはすごく普通のことでした。義太夫節にはジャーナリズムの要素もあるけど、ラップのようにリズムに乗った語りのスタイルもありますし。民衆煽動が起こっていくシーンで、ダンサーだけでなく奏者も舞台上を動き、英詞も盛り込んでラップをしたいというのはロマンスからの提案です。義太夫節や邦楽囃子というものが今生きている音楽なのだから英詞もラップも取り入れるのは当たり前かと納得しつつ、これまでにラップの曲を作ってきたわけでないので苦労はしました。古典だから英語は出来ないんじゃないかとか、そういう変な区別をせずにフラットに音楽として捉えてくれるロマンスがいたから挑戦できたと思っています。逆に義太夫節がこうじゃないといけないというこちらからの線引きを避けたいです。

――それだけ時空的にも表現的にも懐の広さを感じます。「義太夫で今を語る」ということに重ねて最後、聞きたいのですが、『江丹愚馬』のような作品って、今の時代に何ができると思う?

やまみち:文字を紡いで物語を作る、それを今度は音にする。その音に乗って体で表現するって、ある種の呪術だと思うんですよね。祈りだったり呪いだったり。だから作品の社会的な意義や社会的波及効果はもちろん重要なんですけど、私はまずは何かを祈ったり願ったりすることから生まれるプリミティブなグルーブみたいなものを大事にしたいと思っています。それが芸能の始まりだとも思うので。今の時代に芸能本来の姿を蘇らせることで、人々の気持ちを慰め、幸せに呪いたいです。伝わりますか、伝わっていますかね?

なるほど、作品を見た感じですがしっかり伝わっていると思いますよ。

Photo by Yulia Skogoreva

インタビュー後がき

劇中で初老の男性の義太夫の語り部と、3人の若いコンテンポラリーダンサーが共に踊るシーンがあった。身軽なダンサーの動きに比べて、語り部の動きはどこかたどたどしいのだが、その姿を見ながら、地元の花火大会で盆踊りを踊っていた父親のことを思い出した。普段身体を動かさない人が、見よう見まねで踊る、あの様子を思い出す。あの風景を奪われて3年が経つ。私たちは歌い、踊ることで、何かを確かめていたのではないかとモヤモヤしていたが、本作品を見て「その何か」が明瞭になった気がする。どこかで聞き慣れた三味線と笛の音、太鼓のビート軽やかに。世代や世帯、地域などといったヤボな線引きを超えて、皆で身体と心を躍らせながら、きっと確認していたのだと思う。地続きの時間の中で確かに今という時を私たちが生きているということを。

イベント開催のお知らせ
クマ財団ギャラリーではこのたび、作曲家、太棹三味線演奏家として活躍中のやまみちやえが音楽・演出を手がけるワークインプログレス公演『橋姫』を、9月30日(金)〜10月1日(土)の2日間にわたって開催いたします。下記URLから詳細情報をご確認くださいませ。
https://kuma-foundation.org/gallery/event/hashihime/

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