ニュース
インタビュー
活動支援生インタビュー Vol.22 春原 直人インタビュー「現在地と故郷を結ぶ山。記憶と体験をかたちにする」
クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。
活動支援生インタビューシリーズについての記事はこちらから。
>活動支援生インタビュー、はじめます!
Naoto Sunohara|春原 直人
春原直人の創作活動には、ある重力が伴う。東北芸術工科大学の日本画コースを修了し、作品に墨や岩絵具を使い、しかも山を主題に描く。それは明治以降に急ごしらえされた「日本画」という概念・制度から無縁ではありえず、彼にインタビューすることになった筆者自身も、やはり「日本画家」というフィルター越しに彼と接してしまうのだ。
しかし、春原は自身を「日本画家」とは名乗らず、また自身の作品を「日本画」とも言わない。むしろさまざまな知見や作品を巡る思わぬ展開を経て、ジャンルの重さや距離を測りながら、より身軽な表現へと向かうことに気持ちを寄せているようだ。山形を拠点に、日々制作を続ける春原に話を聞いた。
インタビュー・執筆:島貫泰介
喪失の感覚から始まった「山」への興味
ー 「山」を作品のモチーフにするようになったきっかけは? 多くの作家が富士山を描いてきたように、日本画にとって山の画題はとても大きな存在です。
春原 僕自身は「日本画家」という肩書きを名乗らず、また「日本画」という言葉も使わないようにしているのですが、山はやっぱりそうなっちゃいますよね(苦笑)。
きっかけは進学による移動なんです。僕は長野県出身で、いつも浅間山が視界に入る地域で生まれ育ったんですが、自分が見慣れていたはずの風景が大学進学で山形県に行ったことで失われてしまったという感覚が強くあって、その中心にあったのが山の喪失だと気づきました。もちろん山形も山の多い地域ではあるんですけど、それでも喪失の感覚ははっきりある。むしろなぜそういう感覚になったのかに関心が向かっていって、小さい頃から見てきたものによって自分は構成されているんじゃないか、それは山なのではないか、というところから研究的に深めていった、という感じです。
ー 長野生まれと聞いて真っ先に思い浮かんだのが日本アルプスですが、浅間山なんですね。活火山ですね。
春原 卒業制作のための取材で、本格的に登山をするようになったのがですが、その時に登った山は北アルプスでした。山形と長野の山を両方登って、そのあいだを行き交う……ミックスした印象の作品を作りました。
ー 写真やスケッチに基づいて描くのでしょうか? それとも山を登った体験を手がかりにして作品に反映させていくのか。
春原 両方です。でもスケッチはかなり大事にしています。山に登るときも、まず全体が見えるふもとの位置からスケッチをして、登りながらまたスケッチする。でも「描く」には記憶も必要になってくるので、岩のざらざら・ごろごろした感じなんかは記憶や体験を手がかりにして。いろんな要素が合わさって作品になっています。
ー 近作は抽象的なものが増えてきたと聞いています。
春原 大学を卒業して大学院に入るあたりまでスケッチに重きを置いていたのも理由だと思うのですが、大学院でフッサールの現象学を研究対象にしたことが大きいです。
ー 人がどのように対象を捉えているか。その認識や体験についての哲学ですね。
春原 現象学を通して、自分の感覚的な部分や身体性を研究するうちに、絵を描くという運動と、山に登るという運動をつなげたいと考えるようになりました。それによって、筆致がそのまま残る、抽象度の高い絵に変わってきて、山に登った感覚と同時に、絵を描いているその場の瞬間的な感覚も大事になってきて。そういうものを大事にしながら偶然性を生かして即興的に描いている、というのが最近です。
ー モチーフとしては一貫して山であり続けている?
春原 GPSのデータを使って自分が歩くことでかたちができてくる彫刻作品も作ったりしていますが、そうですね。山です。でも山をモチーフにしていても、そのタイトルには身体の部位の名称を使ったりしています。平面作品において自分と対象を隔てているのは自分の身体であって、身体の内と外を隔てている肌とか肉へも関心が広がっている感じはあります。
ー 身体性や、身体を介した体験に関心があるのですね。
春原 長野から山形に移ったことで感覚の変化が起きたことを出発点として、山を登ることでものの見え方が変わっていったり……そういう自分の関心の変化について考えていくうえで現象学的な考え方がガイドになった感覚があります。
「日本画」への距離
ーそれでもあえて聞くのですが、日本画的なものが自分の作品や活動に与えた影響はあると思いますか?
春原 どこから話せばいいか迷うところですが、最初に興味を持ったのは、円山応挙の絵なんです。あれを日本画と呼んでいいか僕は判断できないですし、日本画というもの自体が明治時代に生まれて名付けられたものではあるわけですけど、いずれにせよまず応挙の絵との出合いがありました。
応挙って余白の使い方が巧みですよね。湖に船が浮かんでいる風景を描く場合も、画面の下のほうに水の波紋のようなものがちょこっと描かれていて、また右端のほうに木がちょっとある。もうそれだけで観者に湖を想像させてしまう。描かずして描いていることに驚いたんです。それと山形は霧の多い土地で、山一面が霧でホワイトアウトして見えなくなる、応挙的な、余白多めの自然環境であったことも関係してるかもしれない。
さらにそこからバーネット・ニューマンやフランク・ステラといった戦後抽象表現主義に関心が移っていって、あの時代にも描くことへの拒否する姿勢はあって、応挙とつながっていって。そういったところが日本画と現在呼ばれているものが自分にもたらした影響と言うことはできるかもしれません。あと話は変わりますけど「もの派」にも興味があって、応挙や抽象表現主義のミニマルさと、もの派の人たちが用いる現象学のアイデアはつながってるな、とか思ったりもします。
ー 美術、とくに絵画は技術の集積でもあるので、どれも形式や様式、制度の拘束があります。しかしそのなかでも、日本画の日本国内における拘束の強さは群を抜いています。それはナショナリズムや政治とつながりやすい成立の歴史があるからでもありますが……。
春原 危うさがある(苦笑)。日本画ってものを呪縛として感じる自分も当然います。画材に使っているのも墨と岩絵具ですし。初期は別の画材を使っていたのですが、だんだん墨になってきたんですよね。墨は日によって見えてくる色がまったく違う、変化する画材で、それが山のいろんな表情を見せるのにも適している。しかも水墨画として中国から持ち込まれたときに描かれていたのが山水画で、ルーツとしてすでに山がある。
ー しかしヨーロッパ圏においても崇高や畏怖の概念において山は重要ですし、画家たちも繰り返し山と人間の関係を描いてきました。つまり世界的に山は美術の主要なモチーフであり続けてきました。
春原 広すぎるモチーフだからこそ、当然いろんな切り口がある。だからこそ、それにどうやって触れていくかが自分自身の抱える課題なんですよね。大学院時代は三瀬夏之介先生のゼミに所属していて、三瀬さんたちの世代が出展した「MOTアニュアル2006 No Boader『日本画』から/『日本画』へ」(東京都現代美術館、2006年)の影響からも免れえないものがあるんだけれど、日本画の特性を逆手にとって日本画の垣根を超えていこうとしたその世代の活動が、むしろ日本画に関わるパラドックスを再度生んでしまったようにも見える。それは日本の美術大学に日本画学科がある限り存在していくとは思うのですが……その問いはやはり常に頭のどこかにありますね。
作品を身軽にしてくれるもの
ー そういった変遷を経て、近年は抽象度の高い作品や、登山のパフォーマティビティを取り込んだ作品も作ることについてどのように感じていますか?
春原 作品を説明するときに「抽象度が上がる」と言うこともあるのですが、自分のなかでは、むしろより具体的になってきています。見た目として地理的に正しい山のかたちをしているわけではないのに、絵の具のざらざらした感じやしたたりといった筆致がなぜか山に見えてきてしまうことに関心があり、そこに登山や絵を描くという行為が重なってきて抽象性やランダムネスが作品に現れてきている。そのランダム性も、登山を重ねるほどによい感じのものが生まれて、コントロールできるようになっています。
ー 一枚を描き上げるのにどのくらい時間をかけていますか?
春原 おそらく速い方だと思いますが、自分の場合同時並行で複数の絵を描くんです。キャンバスに和紙を最初に貼っておいて、乾き待ちのあいだに別の絵にとりかかる。10点くらいであれば1ヶ月くらいで完成します。
1枚の絵を一気に描くわけではないので、何もせずにずっと作品を眺めている日なんかも挟みながら、毎日毎日描き進めていく。そうすることで見えてくるものもあって、そのプロセスのなかで記憶や即興性を生かしているんです。
ー アウトドアブランドの「THE NORTH FACE」に作品が起用されたのも新しい展開ですね。
春原 絵画や美術の歴史のある意味での「重さ」に対して、オンラインゲームや音楽や映像配信のサブスクといった他のメディアの新しいプラットフォームや技術を使って発表される作品のフットワークの「軽さ」に憧れがあるんです。メディアとしての絵画はすでにいちど終わって役割を終えている。だからこそ意味の重さを用いなければ作品として成立しない以上、これは仕方のないことなのですが。でもノースフェイスとコラボしたことで、自分が感じていた重さが解けて、少し身軽になった気がしたんですよね。
自分の描いた作品が、衣服といういちばん身近なメディアになり、それをみんなが購入してまとってくれる。さらにノースフェイスというブランドが、美術や絵画の文脈的な重さを代わりに担ってくれることで、僕の作品がすごくライトなものとして外に送り出される。それは嬉しいことだし、現象としても新鮮です。今後、それがどう展開されていくかは自分のなかでまとめきれてないですけど、その経緯が面白いなと思っています。
ー 最後に「STUDIO CORE’LA(スタジオコアラ)」についてお聞きします。クマ財団からの助成を受けて開設しましたが、春原さんたちがスタジオを必要とした理由はなんでしょうか?
春原 東北芸術工科大学で美術を学ぶ若者は多くいますが、卒業後も山形に残って制作するモチベーションをもつ人はそんなに多くない印象があります。それは制作や発表するためのスタジオが限られていることが大きい理由で、だったら自分たちでスタジオを持ち、それが増えていったら楽しく盛り上がるんじゃないか、というのが理由です。名前をつけたのは僕ではないのですが、「コアラ」は「コアなやつら」という意味なんですよ(笑)。そういうアーティストたちが集まる場所でありたいなと。
若い人たちや学生にも認知されてきて、最近はインスタグラムを見て訪ねてくるコレクターも増え始めていて「コアラ」という名前がしっくり来るようになった感じがあります。芸工大の卒業制作展が2月くらいなので、それにぶつける感じで小さい作品を集めた展覧会をやろうとか、仲間たちと話しています。そうやって「コアラ行こうぜ。コアラで何かやってるぜ」みたいな雰囲気を作っていければと思っています。
島貫泰介 プロフィール
美術ライター/編集者。1980年神奈川生まれ。主に京都(寺の町)と別府(温泉の町)に在住。『Tokyo Art Beat』『美術手帖』『CINRA.NET』などで執筆・編集・企画を行う。三枝愛(美術家)、捩子ぴじん(ダンサー)とコレクティブリサーチグループ「禹歩」を結成し、展示、上演、エディトリアルなど、多様なかたちでのリサーチとアウトプットを継続。2021年からは別府市南部地域の共同温泉などを会場にしたパフォーマンスイベント「湯の上FOREVER!」の企画・運営なども手がけている。