インタビュー
活動支援生インタビュー Vol.34 向井 航 ドラァグ表象から描くオペラ『NOMORI』
クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。
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Wataru Mukai | 向井 航
『NOMORI』の様子 ©進藤綾音
このインタビューでは、ジェンダーやクィアをテーマとするに至ったきっかけや、ミュージックシアターでアート・アクティビズムを行うことの意味、また『NOMORI』におけるドラァグパフォーマンスの捉え方など多岐に渡ってお話をうかがった。
インタビュアー・ライター:乾 真裕子
カーテンを開くこと
━━まず最初に、今回の演奏会『ドラァグの身体』を行う前に考えていたことなどをお聞きしたいと思います。当日パンフレットに、「大学入学当初はクローゼットな姿勢*を取って作品を発表していたが欧州で生活する中で大きな心境の変化があった」と書かれていましたが、何かきっかけなどはあったのでしょうか。
*セクシュアルマイノリティの人々が、自身のジェンダーアイデンティティやセクシュアルオリエンテーションなどを公表していない状態
向井:そうですね。日本にいたときは、「言わぬが花」的な文化があるのと、周りからどう思われるか心配で、自分のセクシュアリティを家族にも、双子の兄にさえも言えませんでした。
でも、大学院の留学先であるドイツではキリスト教がベースで、嘘をつくことが罪という文化だったんですよね。そういう場所で、そのような文化で育った人たちとコミュニケーションをとって過ごしていくうちに、その考え方に影響されてきました。大学院でできた友人が「男性か女性か、それ以外のパートナーはいるの?」という言い方をしてくれたなどの経験もあって、段々と自分の中で言ってもいいのかなという気持ちが芽生えてきたんです。
━━クィアの文化が共有されている場所だと、例えば「あなたのジェンダーアイデンティティはShe/He/Theyどれですか?」という確認が、コミュニケーションの一番最初に出てきたりしますよね。
向井:そうですよね。あとは、そのときたまたまAppleのCEOのティム・クックという方が2014年にゲイであることをカミングアウトしたという記事を読んだんです。彼は、「自分の私生活のカーテンを開けることによって、誰かを助けることができるのではないか、という希望から(カミングアウトしたの)でした」ということを言っていて、自分もアートを通してカーテンを開けることで、誰かをエンパワメントすることができるのではないかと思いました。
(Curtis M. Wong「アップルCEOのティム・クック氏 「ゲイであることは制約ではなく、特徴です」Huffpost、2019年10月29日掲載、2023年5月12日参照)
━━当日パンフレットにも書かれていましたが、他にもダムタイプのメンバーである古橋悌二に影響を受けたのですね。
向井:彼が遺した『メモランダム 古橋悌二』(企画:ダムタイプ、リトルモアブックス、2000年)という本を読んで、彼の発した言葉にすごく勇気づけられました。クィアをアートで扱うのってすごく難しくて。搾取されやすいテーマだったりするし、「ポリコレ」と呼ばれていますが、そういう政治的正しさというものと多様性とのバランスが難しい。
そんな中で古橋さんが「まあマイノリティがやってるんだから大事に扱ってあげないといけない、という態度が根底にあったり。(…)そういう自分の良心の呵責をすっきりさせるためにマイノリティを擁護する、という近年の図式を一歩踏み越えたものを作りたかった。」と言っていてすごく共感しました。あとはオノ・ヨーコやキース・ヘリングにも影響を受けましたね。だから私も、クィアをポジティブに描きたいという気持ちが強いです。
(引用:WEB D!CE 「とてつもなく複雑な心の内奥に触れる―ダムタイプ古橋悌二が語るアートの役割」2023年5月12日参照)
『LOVE is LOVE』の様子 ©進藤綾音
━━なるほど。2020年の作品『Love is Love』で初めてドラァグパフォーマンスをご自身で行ったとお聞きしたのですが、今まで「見る専」だったドラァグを実際に自分でやってみたときに、どのような感情や感覚になりましたか?
向井:元々メイク道具を集めたりするのが好きだったので、個人的にやってみたりはしていました。でも作品を通して他者に公開したという意味では『Love is Love』が初めてでした。作品内でのメイクは、友人のメイクアップアーティストにやってもらったのですが、こうなると顔に立体感が出るんだなとかブラッシュはこうするといいなとか、色々と学ぶことができました。
━━メイク道具って可愛いだけじゃなくて、実は使いやすいように考えられた上で色が配置されていますよね。
向井:そうなんですよね。もう一つ感じたこととしては、過去の自分の葛藤と訣別するというような気持ちになれたことですね。幼い頃から顔立ちが女の子っぽかったので日常的にからかわれることがあって、だからものすごくマスキュリンになりたかったんですね。一方でメイク道具などにも惹かれていた。自分のなりたい理想が、極端に男性的なものと極端に女性的なものだったので、相反していました。最終的に、過去の自分が選んだのはマスキュリンに生きるという方向でした。わざと声を低くしてしゃべったり男性らしいとされる仕草を身につけたり。
『Love is Love』でドラァグをしたときに、そういった過去に訣別して自分らしく生きるというのを受け入れることができた。それにとても感動しました。でもそこで難しいのが、ドラァグをしていても、振る舞いや仕草とかに素の自分がにじみ出るんですよ。それがすごく嫌で。自分のアイデンティティを消して完全に別の人格になりたいのに、それでも垣間出てくる自分というものを感じました。
━━おもしろいですね。『Love is Love』を公開するときに葛藤とか、怖いと思う気持ちはやはりあったんでしょうか?
向井:やっぱりとても怖かったですね。今でもその葛藤や怖さはあります。ただ、リップシンクという表現が持っているパワーも同時に感じました。リップシンクって他者の声を受け入れるわけですよね。その過程がすごくおもしろい。身体というメディアを通して他者の声を発声していくというか。
━━それすごく意外だなと思いました。というのは、音楽の世界って、「生の声」じゃないですか。楽器も声楽家の方々も、機械で作られた音ではなく自分の身体を通して生の音を響かせている。そんな中で向井さんは、他者の声を用いるリップシンクにおもしろさを見出したんですよね。
向井:そうですね。スイスにいたときパフォーマンスの学科にもいたので、それも影響しているかなと思います。あるとき、みんなでゴリラの映像を見てなりきってみるという授業があったんです。筋肉の使い方だったり、手足の動かし方だったりを真似していくんですよね。何かあるいは誰かをパフォーマンスして得られる情報量ってものすごくて。
あとは、2022年の12月に「night embassy」というイベントに行ったときに、ビヨンセのリップシンクをするSasha B Savannaという方のドラァグパフォーマンスを見たんですよ。それがものすごくて。リップシンクってただ口パクをするだけと思っていたのですが、全然違うんだなとそのとき分かりました。なんというか、Sasha B Savannaさんとビヨンセのアイデンティティがぐじゃぐじゃに混ざり合ってビヨンセを超えた何かになるんですよね。身体全体から声が出ているというか。私は見ている最中に泣きました(笑)周りを見たら私以外の人たちも興奮して声をあげたり泣いたりしていて、本当に凄まじいパフォーマンスだったんですよ。
そのときに、リップシンクという表現は声という音源に対してインプロビゼーションのようにアクティブにパフォーマンスしていくものなんだと気づいたんです。そういった意味で、リップシンクは自己表現の一種でもあるのだと思いました。
『Love is Love』の中にも、自己表現としての歩き出すシーンがあります。クィアにとって歩くという行為は、デモなどのアクティビズムとして、歴史的に重要な意味を持っていますよね。だから、ドラァグパフォーマンスの素人である自分もみんなと同じ場所に立って、アマチュアな表現方法を使ってみんなで自己表現することがエンパワメントになるのではないかと思ってそのようなシーンを作りました。
真逆なものをぶつけてみる
『LOVE is LOVE』よりドキュメンタリーのシーン ©進藤綾音
━━なるほど。それって鑑賞者だけでなく向井さん自身を含めてエンパワメントする行為ですよね。だからこそクィアというものをポジティブに捉えて描きたいというところに繋がってくるんだなと思いました。向井さんの作品には、今おっしゃったような個人史やインタビューなどのドキュメンタリーの手法が混ぜ込まれていますが、それは初期の作品からでしょうか?また、なぜその手法にたどり着いたのでしょうか?
向井:2017年ごろ、大学院でこの手法を取り入れて研究を始めました。自分たちの生きている世界と地続きのシアターを作りたいと思ったのがきっかけです。オペラなどのミュージックシアターでは、インタビュイーがそのまま舞台に出るということはほぼないわけで、必ずそこに誰かが誰かを演じるという虚構が生まれる。その虚構性と、楽曲が持つファンタジー性だったりドラマティックな部分をどう組み合わせることができるかということを考えていました。
そもそも、元々オペラって社会を映し出すメディアだったんですよ。だから、今生きているこの時代を、今生きている作曲家である自分が描くんだったら、今自分が生きている世界と繋がりがあるようなものを制作したいと考えていました。
━━本来オペラってそういうものだったんですね。知らなかったです。
次に、オペラ『NOMORI』という作品についてお伺いしたいんですが、このお話は能の『野守』というお話をベースにされてますよね。どうして今回、能を選んだのでしょうか?
向井:私は東京藝術大学で作曲を勉強していて、藝大は日本で唯一、能楽者を育成できる邦楽科がある機関なんです。2年次に副科で能の謡の授業をとり、3年で鼓の授業を取っていました。なので、日本の伝統音楽とか、日本で培われてきたミュージックシアターの形態を勉強するきっかけがあったんですよね。
その上で、私は能をハイブリットな形に展開したいと考えていました。というのも、何か性質が真逆なものをぶつけるという方法を取ることが私の場合はやりやすいというのもあり、ドラァグが持つユーモアさと能の幽玄さを掛け合わせたものが作れないかなと考えていたんです。能をベースに、クィアなオペラを描くーーーすなわち、能の持つ格式高い様式化された日本文化を、転覆または超越させて、ドラァグ表象を用いたオペラの舞台に引き込むというイメージが自分の中にありました。
ーここで気になることがあって、パンフレットにも書かれていましたが、そもそもオペラにおいて異性愛が当たり前とされるような表現はまだ強く残っているのでしょうか?
向井:そうですね。まずオペラっていうものが、集客数の少なさや費用の関係で、現代ではあまり制作されないんですよ。だから絶対数として今の時代の作品が少ないので、昔の価値観が反映された作品が多く残っているということが理由の一つとして言えると思います。
━━そもそもあまり作られないから作品が更新されていかないっていうことですね。そういった中で向井さんが今オペラを作る意味ってすごくありますよね。
「揺れる表現」としてのドラァグ
━━ここからは『NOMORI』の内容についてお聞きしていこうと思います。
今回のオペラは登場人物が全員ドラァグをしていたことがやはり特徴だと思います。そのドラァグ監修を、ドラァグクイーンとして活動しているアーティストのMoche Le Cendrillonさんが担当していらっしゃいました。そこでまずお聞きしたいのが、オペラってどれくらい声楽家の方々に対して演技指導があるものなのでしょうか?その上で、今回はどれくらい演技指導が入っていたのでしょう?
向井:一般的なオペラの制作の現場だと、演出はもう全部決まってるんですよ。身振り手振りからポジション、手先の動作とかも全部決まっています。
『NOMORI』に関しては、いわゆる演技指導というのはあまり入っていません。ただ、Mocheさんがリハーサルを見てくれたり、声楽家自身がMocheさんに演技方法のヒントを尋ねたりと、自発的なやりとりは多くありました。それに加えて、そもそも奏者の方々を選ぶときにかなりリサーチとヒアリングを行っていたので、自分の作品に親しみを感じてくれる方かどうか、こういう演技ができるかどうかというのはあらかじめ考えていました。オペラというと、普通は曲があってそれに奏者が演技をして寄せていくという感じなんですが、今回は私が作曲をする際に奏者に寄せていきました。なので作品の作り方が当て書きに近いかもしれません。
━━そうだったのですね。今作では、ドラァグクイーンやクィアを演じる上で、当事者/非当事者の問題や難しさが生じたかと想像するのですが、そこら辺はどのように考えて、Mocheさんや奏者の方たちと話し合ったのでしょうか?
向井:自分は当事者だし、ドラァグ文化にも触れているつもりだったので、この題材で曲を書きたいという欲求がありました。一方で、Mocheさんと話し合っていく上で、ドラァグの捉え方の違いが分かってきたりもしました。特にドラァグのコミュニティに対して何が残せるのかという視点は、自分に欠けていたものだったと実感しました。
ミュージックシアターやオペラは、役を演じる「パフォーミングアーツ」で、自身の身体や政治性を用いるのは「パフォーマンスアート」であると思うのですが、その二つの間のバランスが難しかったです。つまり、パフォーマンス的にドラァグを「演じる」ことと、あくまでもコミュニティや自己からの地続きな「表出」としてドラァグを捉えているMocheさんという二つのバランスですね。ドラァグという聖域に演者がどこまで踏み込めるのかというような。ドラァグを表面的でなく、正しく理解してもらうためにはどうすればいいのかということや、ドラァグという個人単位のパフォーマンスを、オペラなどの組織的なプロダクションで扱う際のズレをどう抑えられるかということをずっと考えていました。ただ、演じたからと言ってそれが全て嘘になるわけではないし、演じるからこそ生まれる力があると思っているので、このような話し合いを、Mocheさんや奏者の皆様と何回も行っていくことで最終的な着地点を探していった感じです。
━━なるほど。今のお話を聞いていると、演じることが他者を想像することにも繋がるのかなと思いました。どういう風に声を出しているのか、手先を動かしているのかを考えることって自分じゃない誰かに寄り添う行為でもありますよね。
向井:そうですね。ドラァグをパフォーマンスすることに関してはそういう面があると思います。一方で、これはMocheさんがおっしゃっていたのですが、ドラァグクイーン自身は自分の身体と向き合う作業をしている。だからドラァグというのは、この二つの行為の間で揺れる表現なんだと思うんです。
━━それはすごく面白いですね。
向井:今回は、後者の自分の身体に向き合うという部分にあまり時間を割くことができなかったという反省がありました。例えばMocheさんにワークショップを開いてもらって、まず自分たちでメイクしてみたり、自分たちの身体と向き合ってみたりするところから始められたらよかった。そうすることで、ドラァグというものをもっと理解できたのかなと。それは今後の課題として考えていこうと思っています。
━━改めて、ミュージックシアターでクィアやジェンダーの問題を扱うことの意味や、向井さんの考えをお聞きしても良いでしょうか?
向井:はい。今回の演奏会に対して色々な感想をいただきました。LGBTQ+当事者ではないかたや、LGBTQ+ではなくまた別のマイノリティに属していらっしゃる方からも送られてきて、自分が作品を作ることによって救われる人がいるんだという実感や励みになりました。だからこそ、自分自身も成長しながら作品制作という活動を続けていくしかないのかなと。ダムタイプの古橋悌二さんの受け売りになってしまうのですが、私はアートの力というものを信じていて。
(引用:WEB D!CE 「とてつもなく複雑な心の内奥に触れる―ダムタイプ古橋悌二が語るアートの役割」)
このようなテーマは、自分の作品が好きな人も嫌いな人も、LGBTQ+当事者の人もそうでない人もみんなで考えていくことだと思うので、アートを通して何か考えるきっかけを作れたらと思っています。
━━最後に、今後どのような作品を作っていきたいでしょうか。
向井:まず、『NOMORI』を再演したいと思っています。様々な反響もいただいたので、今回45分くらいだったものを1時間半か2時間くらいに発展させられないかなと考えています。海外で上演するとなるとまた日本とは違った反応が来るでしょうし。今回の反省やいただいたアドバイスを踏まえて、より良いものを作れるんじゃないかと考えています。
もう一つは、今後もドキュメンタリーの作品を作りたいということですね。『Love is Love』の中にも出てきたのですが、「多様性というものは神から与えられたものであって、だからこそそれを大切にしなくてはいけない」という考え方をしている友人がいて、自分はそう考えたことがなかったのでとても驚きました。フィールドリサーチの過程で、自分とは全く違う文化や宗教観で育った人の意見を聞くというのはとても興味深いことだと思っています。それについて考えながら自分の言説を作っていくというか。そこがドキュメンタリーを取り入れた作品の魅力だと思っているので、これからも制作をつづけていきたいです。
━━ありがとうございます。インタビューを通して、最初にカーテンを開く必要があったんだなというのを感じました。その話とドキュメンタリーという手法はかなり繋がっていますよね。向井さんやインタビュイーの方々の葛藤や喜びや悲しみが含まれた日々の営みというものが確かにそこにあって、それはその作品を見ている鑑賞者の日々にも繋がってくるんだなと思いました。
向井:自分でも気づいていなかったけど、確かにカミングアウトした時期に、ドキュメンタリーの手法をつかって作品を書こうとしていましたね。やっぱりそのときが転換期だったのかなと思います。
━━今回は、ドラァグを行う際の身体性やアート・アクティビズムをミュージック・シアターで行う意味など、多岐に渡ってお話をありがとうございました。『NOMORI』の再演と新作、とても楽しみにしています。