インタビュー
活動支援生インタビュー Vol.44【前篇】藝大卒音楽家・増田 義基とは何者か? ゲーム音楽、合唱、パフォーミングアーツ……音楽的背景を語る
クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。
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Yoshiki Masuda | 増田 義基
テン年代以降の日本のオルタナティヴな音楽シーンにアンテナを張っているリスナーならば、増田義基という名前を一度ならず目にしたことがあるに違いない。しかし広範囲に及ぶ増田の活動は未だ謎に包まれたままの部分も多いだろう。ある時は演劇の現場で、またある時は美術の現場で、あるいはアカデミックな現代音楽からポピュラー・ミュージックまで、作曲家/サウンド・デザイナーの彼はさまざまなフィールドに顔を出す。自ら主宰するアンサンブル・ユニット「かさねぎリストバンド」でアルバムをリリースしたかと思えば、「総合芸術」シリーズと題して「ババ抜き」のフィールド・レコーディングを映像作品として発表する。実にユニークだ。しかし、いったいどのような経歴を経て現在地点に辿り着いたのか——7月上旬にパフォーマンス・イベント『生産工場「ビオトープ探して」』を実施した増田義基に、その音楽的バックグラウンドをじっくりと伺った。
取材・文:細田成嗣
音楽の原体験——ゲームとインターネット
——今回のプロジェクト「ビオトープ探して」は郊外=北関東が一つのモチーフになっています。増田さんは出身はどちらでしょうか?
増田 義基(以下、増田):栃木県宇都宮市出身です。高校までは栃木からほぼ出ない生活を送っていました。
——北関東が出身地でもあるんですね。東京のような都市部だと中高生の頃から近くのライヴハウスに出入りしていたという人もいると思いますが、増田さんの場合はどういうきっかけで音楽に触れ始めたのでしょうか?
増田:栃木は気軽に行けるライヴハウスはなかったですね。当時僕が知らなかっただけかもしれないですが、中高生のコピーバンドが出るような場所が数件あるだけで。ジャズは盛んだったみたいですけど、子供の頃は行けなかった。なので音楽に触れるきっかけとしてはゲームとインターネットが大きかったです。特にゲーム音楽からは影響を受けました。ゲームなので、音楽を聴くというよりは、ある風景と一緒に音を浴びる体験というか。たとえば中世ヨーロッパが舞台のゲームであれば、プレイしていて知らぬ間に刷り込まれている中世ヨーロッパっぽい風景と、そこでよく使われる音楽や楽器の響きがある。戦闘シーンになると曲調が激しく変化する。そういうふうにゲームをしながら音を風景と一緒に浴びていたのが、音楽の原体験という意味では強かったです。
——インターネットではどんな音楽体験がありましたか? 増田さんは1996年生まれなので、ちょうど小学生の頃にYouTube(註:2007年に日本語版サービスが開始)が出てきましたよね。
増田:そうです。YouTubeと、あとニコニコ動画をよく見てましたね。小6から中学生ぐらいにかけてボカロ動画とか音MAD動画にハマっていて。当時、アニメキャラのセリフをサンプリングして、ピッチを変えて替え歌を歌わせるみたいな音MAD動画がすごい流行っていたんですよ。音が面白かったので、そういう動画をmp3でダウンロードしてウォークマンに入れて聴いたり、ガラケーの録音機能で録音して聴いたりしていました。素材になっていたアニメは『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』や『涼宮ハルヒの憂鬱』、『らき☆すた』あたりが多かったです。
——音楽の演奏や制作はいつ頃から始めたのでしょうか? 自分で音MAD動画を作ることもありましたか?
増田:音MAD動画は見るだけでした。演奏については、家にピアノがあったので、それを弾き始めたのが最初です。実は母がクラシック・ピアノを自宅の1階で教えていて。僕の部屋は2階にあったので、学校から帰ると下からピアノの音が聞こえてくる。僕は習うのが苦手で、楽譜通りに弾くのも苦痛だったので(笑)、ピアノは習ってなかったんですけど、聞こえてくるので耳コピして弾いていました。それは楽しかったんですよね。だから小学生の頃からピアノは弾けました。クラスに一人はいる「ピアノが弾ける人」ということで、小中学生の頃は合唱コンクールとかで伴奏を任されることもありました。
高校時代はゴリゴリの西洋音楽リスナー
——高校時代はどのような音楽活動をされていましたか?
増田:高校は男子校で、合唱部に入って男声合唱をやっていました。男声合唱って、ルネサンス期のポリフォニー音楽か、日本の民謡と西洋音楽が混ざった戦後の合唱曲、もしくはアルヴォ・ペルトのような北欧系の現代曲が多くて、高校時代は主にそのあたりの音楽を聴くようになりましたね。さらにその合唱部で知った曲を入り口に、西洋音楽の歴史を意識的に遡るようになって、20世紀の現代音楽を聴いたり、ロマン派音楽は苦手だなということを認識したり。
その中で、たとえばストラヴィンスキーやアルテュール・オネゲルといった、20世紀初頭の戦間期にヨーロッパやアメリカで活動していた作曲家も聴くようになりました。で、そのあたりの時代の音楽が映画音楽の元になっていることもわかってきて、そこから徐々に、もともと好きだったゲーム音楽とも関心領域が繋がっていく感覚がありました。ゲーム音楽も映画音楽も、いろんなシチュエーションでそれに応じた音楽が鳴る。音楽単体で体験するというよりは、その音楽の使われ方、どのような場面でどのように用いられているのかということが、僕にとって音楽の原体験だったので、そのことに事後的に気づき始めたりもしましたね。
——高校時代、特に好んで聴いていたCDはありましたか?
増田:高校生になってからは図書館に毎週通ってCDを借りまくってました。栃木県立図書館なんですけど、変なアルバムがめちゃくちゃ揃っているんですよ(笑)。合唱関連だと作曲家の三木稔や鈴木輝昭の作品をよく聴いていました。日本の現代合唱は、戦後の西洋教育とどう合流するか、その上でどう国民的アイデンティティーを持つか、といったことにすごく苦労した時代があるので、その微妙さが出ていて面白いんですよね。たとえば、日本の伝統的な祭りを取材して抑揚を作るけれども、五線譜に落とし込まなきゃいけなくて、結果、上手くいっているところもあれば奇妙なことになっているところもある。それが聴いていて面白くて。
武満徹の作品もすごく聴いてましたね。『武満徹 混声合唱のためのうた』(1986)のような合唱曲のアルバムもそうですし、西洋のオーケストラと和楽器の琵琶と尺八を組み合わせた有名な『ノヴェンバー・ステップス』にハマったり。あと戦間期に活動したチェコの作曲家でエルヴィン・シュルホフという人がいるんですけど、彼の作るキャバレー・ソングもよく聴いていました。シュルホフは西洋音楽のアカデミックな知識を持ちながら、キャバレー文化のような俗っぽい題材を扱っていて、高尚ではないが複雑さはある、みたいな奇妙さが面白かった。パウル・ヒンデミットも好きでした。和音自体はわかりやすく明るいのに拍子がひたすら変でついていけないみたいな曲を作っているんですよ。
——ものすごくユニークなリスニング経験ですね。クラシック以外の複雑性のあるポピュラー音楽、たとえばプログレとかフュージョンとか、もしくは電子音楽とかマスロックとか、そういった音楽も好きでしたか?
増田:いや、実はフュージョンだとかろうじてカシオペアを聴いていたぐらいでした。あとYMOを聴いたり、上原ひろみのアルバムにハマることもありましたけど、興味の対象としてはやっぱり合唱が大きかったので、高校時代はゴリゴリの西洋音楽リスナーでしたね。
パフォーミングアーツに衝撃を受けた藝大時代
——高校卒業後は東京藝術大学に進学されています。そこで音楽家として活動する一つの決断があったと思うのですが、なぜ藝大に進もうと決めたのでしょうか?
増田:僕が在籍していたのは藝大の音楽学部音楽環境創造科というところだったんですが、なぜ受験しようと思ったのかというと、「国立であること」「パソコンでの音楽制作が学べること」の2点が主な理由でした。親戚にパソコンにものすごく詳しい人がいて、高校2年の時に「音楽を作りたいけど、どうしたらいいかわからない」と相談したら、「とりあえずパソコンを買うといいよ」と言われたんです。それでパソコンを買って、その時に初めてDAW(Digital Audio Workstation)を知りました。ずっとピアノをやっていましたし、合唱部にも入ってましたけど、自分はピアニストとは違うし合唱のプロになりたかったわけでもないので、ピアノや合唱から曲を作るという発想はなかった。西洋音楽の作曲法を学んでいたわけでもないですし。けれどDAWのシステムを知って、コピペでも音楽を作ることができるとわかり、実際にやってみたらとても楽しかったんです。それまでどうやって音楽が作られているのかわからなかったけど、DAWを知ったことで「あ、こういう構造になっているんだ」と理解することができた。そこからパソコンで音楽を作りたいと思うようになりました。
——藝大に入ってから、音楽の価値観や捉え方等々で変化はありましたか? 入学したのが2014年ですよね。
増田:そうです、2014年です。音楽学部に入ったんですけど、大学時代に一番衝撃を受けたのは、実はパフォーミングアーツでした。2015年に柴幸男さんの劇団・ままごとの『わが星』という演劇作品を観に行ったんです。□□□(クチロロ)の三浦康嗣さんが音楽を担当した作品です。柴幸男さんはもともと「現代口語演劇」で知られる平田オリザさんの劇団・青年団に所属していた人なんですね。これは事後的な知識ですけど、『わが星』はリズムによって台詞を分けていたり、抑揚を音楽的に制御していたりして。それを観た時にものすごい衝撃を受けました。音楽家ではない人たちが、これほど動いて歌ってリズムに合わせたり合わせなかったりして、音楽的に豊かなことをしているのはすごいなと。
ままごと『わが星』のインタビュー映像。同作の初演は2009年
それまで栃木だと、それこそインターネットやCDでしか音楽に触れる機会がなかったので、東京に来てこの舞台を観た時に、めちゃくちゃ豊かにオシレーター的なものが配置されていると感じて。高音質なスピーカーで鳴っているとかではなくて、この場所にいる人間一人ひとりが発音体として喋って、動いて、しかもその上で音響装置も設置されていることに、とてつもない豊かさを感じたんです。演者の方々は音程を簡単に逸脱できるし戻ることもできる。全体には微妙なズレもある。複数人で一緒に言葉を発したら、同じ言葉でも絶対に微妙なズレがありますからね。それは音楽をやっている人が普通はコンサートやライヴで受ける感銘みたいなものを、先にこういうパフォーミングアーツで受けたということなのかもしれない。
あとその時、市村作知雄さんという、フェスティバル/トーキョーのディレクターの方が藝大で教えていて。彼の授業でダムタイプを知って、大学にVHSのビデオがたくさんあったので、『S/N』をはじめ片っ端から借りて観ていました。当時は劇団・地点からも影響を受けました。前後しますが2014年に、作曲家の三輪眞弘さんが音楽監督を務めた『光のない。』を観に行ったんです。地点は喋り方が独特で、助詞はこう、名詞はこう、といったふうに発話にルールがあって、三輪さんもルール・ベースの音をディレクションしていました。大学時代はそういったパフォーミングアーツから受けた影響が大きいですね。それまでの「音楽は音である」という考え方が相対化されて、外側から見た時の音楽演奏の意味とか、演奏者がステージに配置された時に生じる役割等々、舞台芸術としての音の面白さに魅了されました。
——パフォーミングアーツから影響を受けて、たとえば演劇作品を作りたいと思うことはなかったですか?
増田:その欲望はなかったですね。ストーリーテリング的な欲望がないというか、テキストで伝えたいことを舞台で形にすることへの関心はなくて。どちらかというと、ある環境、ある場所があった時に、音がどう配置されていると心地良いかということにずっと興味があるんです。
ゲーム音楽からフィーレコまで……多様なリスニング体験
——大学でゲーム音楽の作曲家になりたいと思ったことはありましたか?
増田:高校生の頃はゲーム音楽を作りたいと思っていたんですけど、やっぱり大学でパフォーミングアーツの影響を受けると、ゲーム音楽ではカバーしきれない領域に興味を持つようになっていました。それと、大学では実際にゲーム音楽を制作している人とも知り合って、話を聞いていたら、どうもゲーム音楽は商業的な制約が強いんですね。たとえばメモリの節約という事情からミニマル・ミュージックのようにフレーズを反復したり。あと最近は「インタラクティヴ・ミュージック」と呼ばれるものがあって、特定のBGMを流したままにするのではなくて、ユーザーによるゲームの進行に合わせてBGMを変化させる。たとえば攻撃して敵のボスの体力が赤ゲージになったら音楽が盛り上がってエレキギターの音が入ってくる、みたいな。しかもそれをユーザーに気づかれないように、絶妙なタイミングで入れるんです。それはそれで面白いですけど、システマティックだし、人間の生理的な感覚を研究した結果、「これが気持ち良いでしょ?」と人間を規定しているところがあって、それは僕がやりたいことではないなと思いました。それよりもパフォーミングアーツのような、予測できないエラーとか、BPMで規定できない時間軸が出現するほうが、複雑性があって面白いと感じてしまう。
——リスナーとしては、ゲーム音楽の作曲家で好きな人物はいましたか?
増田:「サルゲッチュ」シリーズで有名な寺田創一さんは好きですね。一度BGMを作ってから猿っぽくするためにBPMを上げたという逸話もあって、めちゃくちゃ面白い。彼がハウス・ミュージックの世界でレジェンドだということは大学に入ってから知りました。あと浜渦正志さんのサントラもよく聴いていました。「ファイナルファンタジー」シリーズを手がけている方で、藝大出身なんですよね。なのでアカデミックな作曲ができる上で劇伴もできるという。
——パフォーミングアーツやゲーム音楽以外で、大学に入ってから聴き始めて印象的だった音楽はありますか?
増田:パフォーミングアーツが入り口ではあるんですけど、ダムタイプの創設時のメンバーだった山中透さんの音楽に一時期ハマりました。同じくダムタイプ経由で池田亮司さんも知って、そこから青木孝允さんを聴くようになったり。あとエイフェックス・ツインとか、オウテカとか、それまで自分が思っていた電子音楽のさらに先を極めているようなミュージシャンを聴いてました。オヴァルもそうですけど、単にソフトウェア・シンセで実装されている電子音で音楽を作るだけではなくて、モノとしてのCDに手を加えてグリッチを使用する、みたいな技法も大学時代に知りました。
——ブライアン・イーノをはじめとしたアンビエント・ミュージックを好んで聴くことはありましたか?
増田:アンビエントはそこまで聴かなかったです。ただ、デイヴィッド・トゥープが藝大でレクチャー・パフォーマンスをしたことがあって、それがきっかけでアンビエント方面の音楽を知るようにはなりました。あと当時慶應SFCにいた田中堅大というサウンド・アーティストがいるんですけど、彼は都市と環境音をテーマに研究していて、一緒にフィールド・レコーディングをすることはありました。アンビエント・ミュージックよりも、自分の関心としては、メディア・アートと関連して出てくるような、ノイズをどう音楽的に組織化するかみたいな方に興味がありましたね。アンビエントっぽい音で言うと、藝大の先輩で大和田俊さんというアーティストがいて、彼の『Scales』という作品には衝撃を受けました。ウニの見た目をした装置がずっと回転していて、100個以上もあるトゲにマイクがついていて、近くに置かれたスピーカーとハウリングを起こしたり、消えたり、みたいなことを繰り返すんです。それでサウンド・アートにも興味を持ち始めるようになりました。
大和田俊 『Scales』(2012)
フィールド・レコーディングだと、Merzougaというユニットのアルバム『Mekong Morning Glory』(2011)も印象的でしたね。栃木県の益子町にArt into Lifeというコアなレコード屋があって、そこの紹介文を見て面白そうで買ったんです。メコン川を下りながら録音していて、いろいろな環境音が入っているんですけど、それだけでなくて楽器を用いたセッションのような音もあって。それを聴いた時に、フィールド・レコーディングという手法を使うことで、ある情景、ある場所の空気感みたいなものを残せるんだ、ということが個人的には衝撃で。ある場所の音を使って配置していくことで、音楽的な楽しみ以外の、そこがどういう場所なのか想像が広がるような作品が作れるということに感銘を受けました。
「かさねぎリストバンド」の始動
——大学時代の2018年には「かさねぎリストバンド」を結成しましたよね。どういう経緯で結成に至ったのでしょうか?
増田:結成するまでは、演劇や美術の分野で音楽を提供することが多くて、音楽家同士で何かを作るということがあまりなかったんですね。それって少し不健康だなと思って。舞台にしろ展示にしろ、スピーカーでしか表現をアウトプットできていないのはどうなのだろうと。それと、自分が一人で作ったものの構造を他人に渡して、その人たちの解釈が入ると、僕だけではできないことができるんじゃないかと思ったんです。それである程度の自由度がある曲をいくつか作って、それを5人のメンバーと一緒に演奏するということが「かさねぎリストバンド」の始まりでした。
初期のメンバーに同級生の久保慧祐くんというギタリストがいて、彼はケルト音楽をやっていたんですね。同じフレーズをどんどん繰り返して掛け合いをするというセッション・ベースの音楽で、僕にとってはそのバランスがとても新鮮で。掛け合いでセッション的なものが生まれる、しかもアイリッシュ・バーとかで長い時間やるんです。フレーズの繰り返しでずっと演奏することがすごく面白かった。それまで僕が知っていた即興演奏って、たとえば中村としまるさんのノーインプット・ミキシング・ボードのように、セッティングにアイデアが込められいたり、いろんな仕掛けを用意しておくものだと思っていたんですけど、そうじゃないやり方がある、と。
それで、まずは久保くんに声をかけて、その時作っていた曲でボーカルが2人必要だったので探して。音楽ジャンルというより声を出すのが得意な人ということで久世文さんと田上碧さんを誘いました。あとキーボードで尾花佑季さん、それとパーカッションで日比野桃子さんにも参加してもらって、その5人と一緒に北千住BUoYで最初のライヴをしました。ただ、そもそもバンドとして始めたわけではなくて、あくまでもメンバーは不定形なユニットというつもりでした。
不定形なユニットとしての集団のあり方は、大和田俊さんと同じく藝大の先輩の網守将平さんが作るバンドのあり方からも影響を受けました。網守さんのバクテリア・コレクティヴというバンドに参加したことがあるんですが、いわゆるバンドというよりその名の通りコレクティヴに近い集団の形なんですね。つまりライヴのたびに必要があるから人を呼んで集団で演奏する。それまで僕が思っていたバンドって、もっと仲良しの集まりだったり、カリスマ的なフロントマンとそのサポートみたいなイメージがなんとなくあったんですけど、そうじゃない形があり得るんだな、と。他人同士でも集まって一緒に音楽ができるということは学びになりました。
——「かさねぎリストバンド」という名称にはどのような由来がありますか?
増田:「重ねる」という語は付けたいと思っていて、それで「かさねぎ」になりました。「リストバンド」は、バンドだけどバンドではない名前にしたいと言ったら、田上さんが「リストバンドは?」と案を出してくれて、語呂がいいので「かさねぎリストバンド」になりました。
——ユニットの音楽性としてはどのようなコンセプトがありましたか?
増田:出発点としては、シンプルに、僕がパソコンで作った楽曲を、そうじゃない形でアウトプットしていく、つまりそのライヴの時に呼んだミュージシャンたちにできることとして実現していく、ということがありました。なので特に音楽ジャンルを考えていたわけではなかったです。ただ、ずっとフレーズを繰り返し続けることで、音だけではなくて演奏している人の身体にも注目がいくといいな、とは思っていました。曲そのものが注目されるというより、曲を通して起こる演奏者の身体の動きや現象の方にフォーカスしていくというか。
「総合芸術」シリーズへの展開
——行為とそれに付随する音ということで言うと、増田さんは「総合芸術」というシリーズもやられていますよね。カードゲームのUNOやスイカ割りといった遊戯をしながら、そこで発生する音をフィールド・レコーディングとして記録しています。かさねぎリストバンドで身体にフォーカスすることと「総合芸術」は、ある意味で対になっているとも言えるでしょうか。
増田:そうですね。「総合芸術」は、かさねぎリストバンドの後にアイデアが出てきて、派生的な試みとして取り組んでいます。
——ジョン・ケージ的な「行為と増幅」ではなく、あくまでもかさねぎリストバンドの延長線上にあると。
増田:はい。ジョン・ケージへの意識はなかったですね。もちろんケージの作品は知ってますけど、あまり影響は受けてなくて。というのも、ケージの作品や思想は今はもう前提になっているところが大きいんじゃないかと思うんです。少し前に「4分33秒」というスマホアプリが話題になったじゃないですか。ユーザーがそれぞれの『4分33秒』を録音して楽しむという。で、録音するとアプリ内の世界地図にマッピングされて、日にちと緯度経度が出て「この場所の『4分33秒』です」みたいに共有できるんですよね。それってもともとの『4分33秒』というよりマリー・シェーファー的なフィールド・レコーディングなのでは……と思いつつ、気軽に録音ができて聴くこともできる今の環境ではケージ的な問題意識が当たり前になってしまっているということでもあるなと思い、あえてそこを出発点にしようとは意識していませんでした。なので「総合芸術」での興味としては、あくまでもかさねぎリストバンドの延長線上から出てきたものなんです。
スイカ割りをフィールド・レコーディングした総合芸術『Suikawari Communication』(2022)。同じロケーションの映像が増田のソロ・アルバム『ビオトープ探して』収録曲「息切れ」のMVで使用されている
——2022年には『とてもとても大きな音が鳴らせるピンポン』という、卓球のラリーをしながら音を鳴らす作品を発表しましたよね。それは「総合芸術」シリーズのさらなる展開と捉えてよいでしょうか?
増田:そうですね。卓球の作品は、「総合芸術」的なものと、ミュージシャンによる演奏の、中間に行けるんじゃないかと思って作りました。卓球のラリーという動作をスイッチにして音を鳴らす。実際にやってみると卓球の音って生音でもよく響くんですよね。だから卓球自体の音はそのままでよくて、ラリーのリズムを強調してそれだけが頭に残るようなものにしようと考えました。
巨大なダムの内部空間を舞台としたSF的な音響世界
——かさねぎリストバンドでは、2019年に巨大なダムの内部空間で演奏した『絶滅種の側から』という試みがありました。これは増田さんの音楽活動においても一つの節目になったのではないかと思うのですが、なぜダム内で演奏・録音をすることにしたのでしょうか?
増田:きっかけとしては、藝大の1学年上の先輩にダム愛好家の田中克さんという方がいたんです。田中さんはパイプオルガンをどう録音するかみたいな研究をしていて、音響にも関心がある人だったんですが、彼から新潟県新発田市の「内の倉ダム」で年に1回コンサートをやっているということを教えてもらいました。それで「ダムの中で何かやらない?」と誘われて、実際に見学しに行ってみたらすごく面白かった。それこそポーリン・オリヴェロスが巨大な貯水槽でやっていた「ディープ・リスニング」を彷彿させる空間で。それで何回かリサーチしに行って、かさねぎリストバンドのメンバーで演奏しようとなりました。
かさねぎリストバンド『絶滅種の側から』(2019)の記録映像
——増田さん一人ではなく、あくまでもかさねぎリストバンドのメンバーで行くということが前提としてあったのでしょうか?
増田:最初は一人でもいいかなと思っていたんです。けれど実際にダムの内部を見に行った時に、ものすごくSF的なものを感じてしまったんですね。地元の建設会社の人に連れられて、街から離れて山の中に入っていって、ヘルメットを被って安全上の注意点を教えられて。それで中の空洞に入ると湿気がすごくて、音もめちゃくちゃ響く。「内の倉ダム」は本来は街のインフラとして機能するために作られた施設で、大雨の時に水を溜めたりするんですよ。その中にぽっかりと空いた空洞が存在している。その構造からは、公的な権力の中にあるちょっとした余剰みたいなものを意識させられもしました。それに、実際に中に入って密閉されたら、周りが全部コンクリートで覆われて、業務用の灯りがポツポツと点いていて、まるでシェルターみたいになるんです。
もしもそこで人間が暮らしていたら、まるで「安全な生活」が保障されるかのようだ——そう思った時に、周囲から隔離されてダム内部の空洞に閉じ込められた人間のコミュニケーションを見てみたいと思ったんです。そしてそれは非常にSF的な世界だなと。20秒以上とものすごく長い残響があるので、普通に声を発して会話することすらままならないんですよね。だからこの空洞で暮らしている人間がもしもいたとしたら、日本だけど違う言語を習得することになるんじゃないかとか、音に対する反応の仕方も変わるんじゃないかと思って。それで、自分一人でこの空間と向き合って何かするよりも、ここで暮らしている人間がいることを仮定して、そのコミュニティを想像してみる方が面白いと思った。それでかさねぎリストバンドとして集団で行くことにしました。
——なるほど、そうだったんですね。たしかに、記録映像を見る限りでもSF的な雰囲気があります。他方で『絶滅種の側から』は、ダム内部の空間を楽器に見立てた試みとも言えると思いますが、その意味では、東京芸術劇場の吹き抜けの空間でパフォーマンスを行った2021年の『水属性』にも発展的に継承されています。
増田:『水属性』は、「TACT FESTIVAL 2021」のプログラムの一つで「街角 LIVE!」というものがあって、本当はライヴとしてやる予定だったんです。けれどコロナ禍でフェスティバル自体が中止になってしまったので、無観客でかさねぎリストバンドのパフォーマンスを行い、それを映像として記録しました。映像だと少しドライな感じなんですけど、実際は吹き抜けの空間にものすごく響いていて、特殊なエフェクトがかかっているような感じで。1時間ぐらいリハをしてようやく感覚が掴めるみたいな空間でした。なので『水属性』は、まさに『絶滅種の側から』の延長線上にある作品でしたね。
——通常のコンサートホールやライヴハウスであれば、音楽を演奏するための設備が整っていて、作者の意図をより十全に表現することができます。いわばホワイト・キャンバスのような空間ですが、かさねぎリストバンドの場合はそうではなく、キャンバス自体の特異性や偏差、つまりその空間ならではの音響を含めて音楽を考える試みに取り組んできたとも言えます。
増田:もちろんそのことへの興味はあります。コンサートホールの外でライヴを行うというのは音楽の歴史にもさまざまな事例がありますけど、演劇でも劇場ではなくオルタナティヴな場所でパフォーマンスするということが、特に2010年代は盛んでした。どちらかというと僕はその演劇からの影響をモロに受けてますね。あと日本の現状として、そういうオルタナティヴな場所でしか表現ができないという現実もあります。たとえばマトモなコンサートホールでライヴをするためには、そもそも経済的に十分な資金を用意できなければならない。公的な助成金が出ているキュレーション・プログラムだと、巨大なところが意思決定権を握っていて、その采配で会場が決まってしまう事情もある。とはいえやっぱり、キャンバス側を無化してホワイトな状態にするのは、もったいないというか、あんまり面白くないと思うのが本音ですね。だから整えられた音響空間よりも、音楽的に未開の空間の方が好きなんです。
オルタナティヴ・スペース「BUoY」のスタッフとして
——増田さんは北千住のオルタナティヴ・スペース「BUoY」でスタッフとして関わっていますよね。あそこも昔は銭湯だった特殊な場所で、未開の空間への興味という意味では、BUoYのスタッフの経験も大きいのではないでしょうか? そもそもどういった経緯でスタッフとして関わるようになったのですか?
増田:BUoYは露骨にそうですね。経緯としては、最初はかさねぎリストバンド結成のきっかけにもなった『Alternative Act vol.1 -Tech Performance Fes-』という2018年のイベントでBUoYに出て、その後、音響や機材の管理をするスタッフとして入ってくれないかと言われて、2019年あたりから運営に関わるようになりました。なので4年ぐらい不定期で関わっている状態で、最近はウェブの管理もやっています。
——スタッフとして関わることで、BUoYという特異な空間を生かしたパフォーマンスにも数多く接することになったと思いますが、特に印象に残っているイベントはありますか?
増田:いろいろありますね。たとえばFUJI|||||||||||TA(藤田陽介)さんによる水槽を用いたパフォーマンス。2019年にダンサーの小暮香帆さんと初めてコラボレーションした『フロー』という公演をBUoYで開催していて、それは印象的でした。それと、BUoYで観た中で一番衝撃を受けたのは、やっぱり飴屋法水さんかなあ。BUoYに限らず飴屋さんのパフォーマンスはどれも素晴らしいんですけど、2021年に山川冬樹さんと一緒にBUoYで『キス』という公演を行ったんですね。BUoYの会場は地下にあるんですが、会場床のマンホールを開けるとさらに下に空間があって、建物の基礎の部分に雨水が溜まっている。飴屋さんはそこからパフォーマンスを始めるんですよ。最初パシャパシャと音が聞こえてきて、ライヴの中継映像では床下で泳いでいる飴屋さんの姿が映る。その後、飴屋さんがマンホールから出てきて、山川さんはクレーンで逆さ吊りの状態で登場し、骨伝導マイクを使った頭蓋骨パーカッションや足で蹴るドラムセット、ホーメイの演奏をする。それを観た時に本当に衝撃を受けたんですよね。まさに表現と呼ぶべき何かがそこにあるというか、行為があって爆発があったというか。
2019年に北千住BUoYで行なったかさねぎリストバンドのライヴより、「1日を重ねる / 今日という1日が遠すぎる」の演奏
——今回のパフォーマンス・イベント『生産工場「ビオトープ探して」』も、人間による作業、何かしらの行為を展示するという意味では、飴屋さんに繋がるところもありそうです。
増田:そういう「行為の展示」はやっぱりいいなと思っています。飴屋さんは『バ ング ント』展で24日間箱の中に籠ったり、2019年の『TOKYO2021』でも骨壺と一緒に自分を展示したりしてますよね。僕と近い世代でもそうしたことを試みる人物はいて、筒 | tsu-tsuというアーティストなんですが、森友学園問題で公文書改竄を命じられて亡くなった赤木俊夫さんの生活をトレースする『全体の奉仕者』というパフォーマンスを行っていました。やっぱり、ホワイト・キューブに少しでも排泄物というか、人間が出してしまったものが堆積していく方が、場としては面白くなると思うんです。だから今回の僕の展示も、せっかくギャラリーを使えるなら全て見せたいと思った。ライヴだと同じ曲を2回続けてできないですけど、レコーディングという名目ならできる。一度きりのパフォーマンスではない形で、音楽をしている人たちのコミュニケーションを見てもらうことはできないかな、と。