インタビュー

現代日本を<黒い生き物>に見立て描く 丹羽 優太さんインタビュー!

クマ財団の奨学生の取り組みを紹介し、クリエイターとしての思いや素顔に迫るインタビューシリーズ。

初回はクマ財団2期生の杉原 寛さん第2回は同じく2期生の伊東 道明さん、第3回は芦藻 彬さんにそれぞれのクリエイティブへの思いを伺いました。

第4回にご登場いただくのは、京都の大学で日本画を学び、古典的なモチーフを現代の文脈で再演させた作品を描いている丹羽 優太さんです。

「大山椒魚」をモチーフにした作品を制作してきた経緯や、自身が日本画を描くなかで感じてきた喜びや葛藤、そして2019年3月に開催されたKUMA EXHIBITION 2019にて展示された作品についてお伺いしました。聞き手は、財団職員の桐田です。

丹羽 優太(にわ ゆうた)画家。日本美術の特徴である<見立て、なぞらえ、しつらえ>を継承し、日本の伝統的な素材である墨や和紙を用い制作。近年は災害と人との関わりというものを、大山椒魚や鯰などの水生生物をモチーフとしながら描いている。1993年神奈川県生まれ。ジュネーブ造形芸術大学留学。京都造形芸術大学大学院首席卒業。

--本日はインタビューをお受けいただきありがとうございます。今回は京都での展覧会に合わせてお伺いしましたが、まずこれまで、どのような作品を制作されてきたかについてお話を伺えたらと思います。

丹羽:わかりました。僕は京都に来て7年目で、育ちは東京なんですが、4年ほど前から大山椒魚(オオサンショウウオ)っていう、京都の川に住んでいる生き物を中心に日本画を描いています。日本の伝統的な表現の形式を使いながら、今どういう表現ができるのかということを常に模索しながら制作しています。

 

江戸の絵師のように大山椒魚を描く

--大山椒魚の作品、面談時にも拝見しましたがとても印象的でした。あの作品はどのような経緯で描き始めたのでしょうか?

「大山椒魚濁流図」

丹羽:一番わかりやすいきっかけという点では、大山椒魚って関東にはいないんです。関西から西にしかいない。なので自分にとって馴染みがなかったことが興味を持った始まりでした。京都にきて、たまたま水族館に行ったら大きな水槽に何十匹っていう大山椒魚が一箇所に重なっていたところに出会ったんですが、その出会いがすごく強烈で。

あの独特なフォルムや肌の質感が、いつからこんな生き物が生きてたんだろうかと思わせるような……実際かなり昔から生きてきた生物らしいんですが、そういう歴史を想起させるような生き物だなと。最初はとりあえずこの生き物を描いてみようかなというくらいでデッサンしていったんですが、いつしか江戸時代の絵描きたちのように描いてみたくなって。

「大山椒魚濁流図」

丹羽:例えば、当時の絵描きたちは麒麟などの伝説上の生き物や、象やクジラみたいな巨大な生き物を、人伝いの文章や、聞いた言葉で補ったり、他の生き物のパーツで補ったりして、作家の想像力で様々な情報を付け足して描いていたんです。

絵師本人たちはとにかくこういう生き物がいるらしいと必死にリアルに描こうとしているんですけど、そうした情報量の少なさによって逆にデフォルメされるという表現が非常に面白いと思ったんです。関東で生まれ育ったことによる大山椒魚という生き物の情報量の少なさが、この生き物の画を描き続けてみようと思った、一つの理由です。

--なるほど、あえて江戸時代の絵描きたちのように描くことで、リアルながらデフォルメされた表現を模索していったと。一つの理由ということは、他の理由もあるのでしょうか。

丹羽:はい、実は大学院に入ってから、日本文化と大山椒魚はどんな風に関わってきたんだろうと思って資料を調べたら、大山椒魚は水害を起こす原因として見立てられ、今も岡山の方で祀られていることがわかったんです。

他にも鯰や大蛇が災害の見立てとして登場していて、特に鯰は「鯰絵」が有名ですが、地震が起きるたびに「鯰が暴れた」と瓦版で描かれるなど、日本各地で自然災害が巨大な水生生物に見立てられていたことにたどり着いたんです。これは面白いなと思って、次第に「災害と巨大生物」というテーマに興味を持っていきました。

 

災害と共存する「日本画」

丹羽:僕が生まれた年が1993年なんですが、その頃からちょうど地震が活発期に入ったこともあり、地震をどこか日常的なものと感じていました。でも、僕自身は被災した経験はないんです。阪神淡路の頃に祖父母の家が神戸にあったこともあって大変なことになっていたり、東日本大震災の際には東京にいたので怖い思いはしたけど、東北の人たちが実際に受けた恐怖は知らない。そんな自分に何ができるのかなと思っていたところに、鯰絵と出会ったんです。

鯰絵は江戸時代に瓦版としてよく描かれていたんですが、地震が起きたことを号外として伝えるだけじゃなく、風刺的に表現するところもあったんです。例えば、地震が起きないよう鯰を石で押さえているはずの茨城の鹿島神宮に対して、全然守れてないじゃないかと町民が怒っていたり。災害すらユーモアをもって描くたくましさがあったんです。

丹羽さんがリサーチした「鯰絵」の一つ「しんよし原大なまづゆらひ(由来)」

丹羽:特に江戸末期になると地震も多いんですけど、庶民の家は木造なのですぐ潰れてしまうし、火事が起きても延焼を防ぐために全部壊されてしまう。災害にあったことは悲しいし辛いんだけれども、江戸の人々が瓦版などで、笑いを求めて楽しむ部分もあったっていうことを知って……僕たちもこれから日本に住んでいく限り災害と共存していくしかないから、この鯰絵をもう一回現代に、また自分の表現に取り入れたいって思ったんです。

 

今、この絵を描く「理由」

--確かに私たちは、日本に生きていく限りは災害と共存していかなければいけないと思っているかもしれません。そうした自身の表現を模索していく中で、どのような葛藤や喜びがありますか?

丹羽:絵は好きで描いていますが、制作している内の90%はしんどいです。だけどちょっと上手くいった瞬間とか、誰かがいいねって言ってくれた瞬間が、僕にとっては他のどんな音楽や映画、旅行といった趣味にも替えることのできない魅力があるんです。その一瞬のために制作しているのかなって。日本美術は本当に素敵な文化で僕はすごく好きですし、昔の作品を見ても、ものすごく格好いいと思います。だからこそやればやるほど「うまいな」、「でもいつか追い抜きたい」という気持ちも生まれてくる。だからどんなに大変でもやっていけてる気がします。

新作「大鯰列島図」 @ KUMA EXHIBITION 2019

丹羽:大変なことはいくらでもあるのかなって気はします。例えばこの「災害」というテーマを今の日本で、被災した経験がない自分が描く「理由」を考えることのしんどさもありました。でも今後画家として制作していく中で、自分が画を制作する「理由」を考えていくことは乗り越えていかないといけない課題でもあります。

自分にとって修士最後の展示の機会として、修了展、クマ財団のエキシビションが控えている中で、一つ答えを出せたらいいなと、もがいていました。

今回展示した「大鯰列島図」は、日本列島に見立てた12枚のふすま絵を、鯰、現代の鯰絵としてのゴジラ、自然災害などのモチーフで構成。そこでは歴史と現代、現実と虚構や想像、変化と普遍などが織り交ざった作品となっています。

丹羽:学部の頃描いた「大山椒魚濁流図」から2年。ようやく次のステップに進めたかなと感じています。この期間は一向に先が見えない時間も長かったように思いますが、修了という節目にしっかりと自分の納得できる作品をやり切れたかなと。

おかげさまで大学、東京都美術館、スパイラル、丸の内と多くの場所で展示させてもらいました。いつか京都の町屋で展示する機会があればやってみたいなと思っています。今後今作のようなテーマで作品を描き続けるかはわかりませんが、今回のように描くことに迫られれば再びやるかもしれませんね(笑)

クマ財団にも、2期に続き3期にも採択いただけたので、奨学金は主に9月から始まる中国への留学に活かしながら、引き続き制作を頑張っていきたいです。

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自然災害と共存していく日本列島を12枚の襖絵に見立てた新作は、修了展では大学院賞、アートアワードトーキョー2019ではゲスト審査員賞を受賞されました。アート市場の拡大著しい中国で、丹羽さんがどのような作品を制作されていくのか、ぜひ注目ください!

クマ財団ニュースでは、今後も奨学生へのインタビューを掲載していきます。次回も、お楽しみに!

Photo by 大川原光 大木 大輔 丹羽 優太 三浦 希衣子 

Text by 桐田 敬介

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