インタビュー

レポート

活動支援生インタビュー Vol.5 吉野 俊太郎 駒込倉庫個展『Peripeteia』(前篇)

クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。

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Shuntaro Yoshino|吉野 俊太郎

11月某日、午前10時。吉野俊太郎個展「Peripeteia」が開催中の駒込倉庫を訪れると、頭巾で顔を覆い隠した白装束姿の人物が出迎えてくれた。吉野の作品から飛び出たかのような白装束は作家本人なのか、それとも代理の操演者か。開場前の鑑賞者がいない展示会場に潜入し、吉野とおぼしき人物に話を聞いた。

話し手☞操演者もしくは吉野俊太郎(以下、吉野)
聞き手☞顔出しNGの美術批評家、中島水緒(以下、太字)

個展「Peripeteia」について

「Peripeteia」展示風景

(駒込倉庫1階の展示会場にて)

――まず展覧会の出品作についてお話を聞かせてください。今回の個展は今年5月にGallery美の舎で開催された初個展(註1)のアップデート版なのでしょうか? 確か《Plinthess》は初個展でも展示された作品ですね。

吉野:初個展では自分が何をやっているのかを見せたかったので、「台座」というモチーフがよくわかる構成になるように《Plinthess》の2点を展示しました。あの時点で今回の駒込倉庫での展示が決まっていたので、二回続きの状態をどうやって見せるかを考えていたんです。今回の《Plinthess》は5点セットで、初個展からの流れが出来ていると思います。駒込倉庫は奥に長い空間なので、シークエンスみたいなものがうまくつくりやすいな、と。

――続きものだったんですね。駒込倉庫はコンテナのような空間なのでこの作品と相性が良いですね。二階では日原聖子さんの個展「Circle in red」が開催されていて、まさに吉野さんの展示が二階の展示の台座になっているかのようです。

吉野:今回の展覧会は完全に独立した個展として企画されていないところが大きな特徴です。当初から二階で展示している日原聖子さんと一緒に企画を進めていました。

――吉野さんの関心に「台座」というのがひとつ大きくあって、もうひとつ「操演」というのがあります。舞台などの裏方で特殊効果を演出するために働いている人たちを操演といいますが、写真の中の人物のポージングは操演の具体的な動作が参照されているのでしょうか?

僕は操演自体は抽象的にとらえているので、動作はオリジナルです。台座との関わりでどういうパターンがつくれるかを考えています。最初台座の上に乗っていた人物が、台座を動かしたり、台座に乗られたり……ということを繰り返して、最後に台座の裏側から出てくる。台座との5つの関係性を表現しました。

――台座のサイズはかなり大きいですね。幅も高さもあって、中はがらんどう。大きさはどのように決定されていますか?

吉野:大きさの決定には二つ条件があります。まず、写真の中で台座を持つことが決まっているので、素材や重さを含めてギリギリ一人で持てるサイズを想定しています。あと僕の身長が180cmくらいなので、自分が中に入って「気をつけ」をしたときにピッタリのサイズになるよう縦尺は六尺(=約180cm)に設定しました。
簡単に持てるサイズだと自分が意図している部分が完全に表現しきれない。台座を「持っている」んじゃなくて「持たされている」というか、自分自身が使役される関係に入っていくサイズになってほしい。僕自身が台座と同じ状況で、対等にならないといけない。そう考えると、ギリギリ持てないかもしれないくらいのサイズがちょうど良いと思っています。

《Plinthess》裏側から。台座の下に人形が挟まっている。

――5つの台座は「立て掛ける」と「もたれる」の中間を思わせる絶妙な傾斜で壁に設置されていますね。台座と壁面、床面のあいだに覗き込みたくなる隙間が生まれています。

吉野:「もたれる」というのは「ずっと支持されている」ということですよね。そういう関係を台座と建築物のあいだにつくりたいと思っていました。壁や柱にくっついたり離れたり、その中間項にあるような状態で台座を見せたい。下に人形が挟まっているので、平衡感覚を狂わせるまではいかないけど、安定した状態には見えづらくなると思っていました。

あと、鑑賞者が「覗く」とか「裏に回る」ような行為は重視したいですね。僕は彫刻が専門で、もともと仏師を目指して東京藝術大学の彫刻科に入学したのですが、最初にショックだったのが彫刻物の中身がからっぽだったということなんです。外面は繕っているけど、ただのハリボテじゃないか、と。「じゃあ彫刻の実体はどこにあるんだろう」と考えるようになってから台座というものに関心が移っていきました。台座自体がからっぽに見えていた彫刻を影で演出(操演)していたんじゃないか、という考え方です。でもじつは台座もからっぽで、内側に何かいるのかもしれない。それがアーティストだったり(あるいはいま僕が衣装を着て振る舞っているような)台座の妖精、精霊だったりするのかもしれない。

――不思議なのは、《Plinthess》の人形はとても痛めつけられています。可哀そうなくらいに。台座の角の部分の一番痛そうなところを押し付けられていますね。ものに対してサディスティックな圧を加えるということが起こっています。

吉野:人形たちが可哀そうに思えるのは、ひとがたをした綿のかたまりに対して感情移入しているから、人形を擬人的に見ているからですよね。僕自身、「人形はひとのかたちをした只の物体である」という考え方と、「痛そう、可哀そう」と感じてしまう両義的な感覚がどうしてもあって。台座も擬人的に見る可能性を考えていきたいのですが、そうなると、自分自身がまずサディスティックに振る舞ったり、あるいは今後マゾヒスティックに振る舞ったりしないと、表現しきれないものがあると思います。

作品解説する展示者、あるいは台座の精霊

――今回の個展タイトル「Peripeteia」にも「逆転」という意味合いがありますね。力学をどちらか一方の極に落ち着かせず、絶えず運動させているイメージでしょうか。

吉野:作品と作者がずっと反転しつづけるイメージが僕の中にあって。作品が単なるモノとして見られるのと、作者が代入されたモノとして考えることが並走して行われてもいいのではないか、と。単なるモノではない、でも人として見過ぎるのも危険なので、その微妙な案配を今回の個展タイトルに込めたつもりです。

――台座を批判的に検証する動きはこれまでも歴史的にありましたが、多くの場合、パレルゴン的なもの(作品を取り巻く二次的・付随的要素)への視点は制度批判に向かいます。吉野さんの場合、台座を扱いながらそこにフィクショナルな想像力が入ってくるのが特徴的ですね。古今東西の人形劇、操演、あるいはギリシャ神話など幅広い関心を連動させながら、現実に対して異なる層をつくりだしている印象を受けます。

吉野:台座は歴史的にも大きなトピックなので、批判的に扱いたい気持ちも捨てきれないのですが、それだけやり続けても限界があるように思います。たとえば日本には邪鬼を足元に踏みつけている四天王像がありますが、四天王と邪鬼の関係性も台座の一種と捉えられるはずです。それと、僕自身があまのじゃくな存在なので……美術、彫刻、台座を完全にコテンパンに叩きのめしたい局面と、そうじゃない局面があります。どちらか一方の極に偏るのではなく、計画的にバランスを取りながらやっていきたい。
歴史的に見ると、道化というのも権力側と被差別側を行き来した両義的な存在みたいですね。それがすごくうらやましくもあるし、美術的な立ち位置だなと思います。

《Peripeteia》

――続いて《Peripeteia》を見てみましょうか

吉野:この作品はイギリスの人形劇「パンチ&ジュディ(Punch & Judy)」をモチーフとしています。「パンチ&ジュディ」は屋外で行われる子供向けの演劇なので、移動ができるように舞台が組まれています。また、子どもが裏にまわって人形を操作している人形師を発見してしまわないように、一枚の板状ではなくブース型の舞台になっているところが特徴です。その構造が台座に似ているので関心を持つようになりました。以前、箱舞台の裏からパンチ人形を操作する人形師を撮影した写真を見たことがあるのですが、美術館や展示空間において、展示者、あるいは作者が台座との関わりの中で引き起こしている効果と同じものがあらわされているのではないかと思い、作品化しました。

《Peripeteia》裏側から。

――裏側にまわると人形師の控室のような空間が見えますね。子ども心をくすぐるコックピットのような空間。ロープやラッパもあるんですね。

吉野:プロップ的なものをおさめた更衣室のような空間をイメージしています。同時に、操演者が人形師と人間を行き来するゲートでもある。展示中は私がいま着ている衣装もおさめていますが、僕自身はもちろんそこにいません。

ロープは過去作からよく用いていて、何かを引っ張ったりつなげたり、という力学を可視化させる道具として考えています。古代ギリシャ演劇で「デウス・エクス・マキナ」という言葉がありますが、神様や人間が舞台上に俳優を登場させたり退場させたりするために、滑車とロープを利用してクレーン的な装置を作っていた記録があるようです。まさに台座上に作品をあらわす操演的な動きですよね。
普段の僕は視線が集中する状態があまり得意ではなくて――いまの僕の格好を見ていただけるとわかるように――できれば黒子的でありたい。「私が作者です」「私がパフォーマーです」という風に表に出るよりは、主役の背後にまわって見えないように振る舞う役柄でありたい。だから、自分の個展会場であっても在廊もあまりしたくないんですよね。でも、今後もしかしたらこの作品でパフォーマンスを行うかもしれないです。この作品なら……後ろを閉めてしまえば僕の姿はほとんど見えないですから。

パフォーマンスのデモンストレーション。前側の小窓からパペット(人形)を動かすのがパンチ&ジュリーの本来の使い方だが、吉野の作品ではパペット不在で手だけがさまざまな表情を見せる。

――続いて《Devils in a Box》。吉野さんは雑誌『ユリイカ』の「ぬいぐるみ特集」に論考を寄稿されていますが(註2)、この作品ではぬいぐるみがびっくり箱から飛び出ていますね。ぬいぐるみ好きにはたまらない造形。

吉野:台座の研究を続ける中でびっくり箱への関心が浮上しました。びっくり箱の中から出てくるのは道化の場合もあるし、悪魔の場合もある。びっくり箱の現在の英訳は「ジャック・イン・ザ・ボックス(jack in the box)」だけど、もともとは「デビル・イン・ザ・ボックス(devil in the box)」でした。自分にとっては格好のモチーフです。作品の構造としては、台座部分やボックス部分が複合的に反転していて、いわば中から何かが出てくるという状態が裏返り続けている。ぬいぐるみの縫い合わせの部分も裏側になっているのですが、裏返すことができるというぬいぐるみの特殊な可塑性を台座に応用しています。

――「ぬいぐるみ・ミーツ・台座」みたいな感じですね。でも、ぬいぐるみの造形はキャラ寄りにならない。禁欲的ですよね。

吉野:どちらかというと、自分や自分以外のものを投影する「かたしろ」に興味があるんですよね。僕自身、あまりゴテッとしたものが好きではなくて。

《Devils in a Box》

――白の衣装もどことなく抑制された雰囲気を受けますが、このデザインはアルルカンと黒子の合体版なんですか?

吉野:仰る通りです。僕の場合、アルルカンよりも総称として「道化」「クラウン」という言葉を普段は使っています。サーカスの道化師や宮廷道化師のイメージが強いですね。サーカスの道化師には演目と演目のつなぎ目に時間合わせとして即興の喜劇を演じるクラウンがいるのですが、その役割を引き受けるには高い技術力がいるんですよ。サーカスの一日の演目と時間配分をすべて把握する必要があるので。その役割が、ホワイトキューブの中での台座の空間操作に似ているように思えたので、モチーフとして繋げられるのかなと思いました。

 

頭巾には鈴がついており、動くたびにシャンリンと鳴る。

誰と話してるの? 台座の影から撮影。

――薄暗い照明は舞台裏的なものを意識していますか?

吉野:そうですね。中心物を見せるというよりは、中心を少しはずしていくような照明空間を最初にイメージしていました。照明が強く当たっていないことで、「これが作品です」という指示が少し弱くなるのかなと。
僕は自分の名刺やウェブサイトにも、人差し指を立てた「指示する指」の画像をあしらっているのですが、照明と「指示する指」は両方とも、「これが作品です」という風に作品を指示する効果があります。逆に言えば、照明が照らすもの、指先が示すもの以外は作品ではないということ。台座もまた「これが作品です」「これが彫刻です」と指示する関係の外で、遠巻きに関わっている存在だと思うので、照明や指とつなげて考えていきたい。

――吉野さんは文脈をつなげるのがうまいですね。

吉野:うまいかどうかはともかく、好きですね。ちょっと妄想的なんですけど。

後篇へ続く


(註1)吉野俊太郎展「Plinthess」はGallery美の舎にて2021年5月18日~29日に開催された。
https://shntryshn.com/plinthess.html
(註2)吉野俊太郎「君はともだち?——芸術家と歩む“彼ら”についての断章」(『ユリイカ』2021年1月号「特集=ぬいぐるみの世界」)

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