インタビュー

レポート

活動支援生インタビュー Vol.5 吉野俊太郎 駒込倉庫個展『Peripeteia』(後篇)

クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。

活動支援生インタビューシリーズについての記事はこちらから。
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Shuntaro Yoshino|吉野俊太郎

11月某日、午前10時。吉野俊太郎個展「Peripeteia」が開催中の駒込倉庫を訪れると、頭巾で顔を覆い隠した白装束姿の人物が出迎えてくれた。吉野の作品から飛び出たかのような白装束は作家本人なのか、それとも代理の操演者か。開場前の鑑賞者がいない展示会場に潜入し、吉野とおぼしき人物に話を聞いた。

話し手☞操演者もしくは吉野俊太郎(以下、吉野)
聞き手☞顔出しNGの美術批評家、中島水緒(以下、太字)

前篇は☞こちらから

文章執筆、他者との関わり、自分は何者か

(時計の針が11時をまわる。駒込倉庫1階の展示会場から場所を移し、2階のバックヤードへ。すぐ隣では同時開催の日原聖子の展示が展開されている)

――吉野さんの多面的な活動についても掘り下げていきたいです。吉野さんは個人ウェブサイトやポートフォリオにある自作解説も面白いですね(註3)。自分の作品について書いていても、主語が「私」や「僕」ではなく「吉野」となっています(このインタビュー中でも「僕」「私」が微妙に混在しています)。主語の扱いに自分自身を客体化する視点を感じるのですが、文章の執筆にも操演の意識があらわれているのでしょうか?

吉野:まさに今仰っていただいたことを考えていました。「私」という主語を使うのがすごく苦手なんですよね。必要なときは「僕」と言うようにしています。でもフォーマルなメールなどでは「私」を使わざるをえないこともあり、そんな自分を苦々しく思ってしまうのですけれど。「僕」という自称は「下僕」に由来する言葉だと聞いているので、自分を相手より下に置く意識で使っているのですが、対して「私」だと自我が強く見えてきてしまう気がします。「吉野は」という主語にすると……実際の文章を見るとやっぱり自我が滲み出ているようでまだ少し恥ずかしいんですが、「私を見て」という意識がだいぶ弱まるかなと思っています。自分を客観視した上での情報をただ記述するつもりで書いています。

――同時に、作品を擬人化するような記述も時々顔を出すような感じがします。たとえば《For Plinthess》の解説。

「台座は、常にその内部から展示空間を把握し、指示をし、しかし物陰に隠れ続ける存在である。強大な能力に反して、彼は恥ずかしがり屋である」

ここでの「彼」は「台座」ですね。自覚的に書いていますか?

吉野:半分は癖でやっていますが、最近は自覚的な部分が強いですね。僕はもともと木彫をやっていたので、木という素材に生命的なものを見ていたところがありまして。そうなると「あれは」みたいなモノの指示よりも、「彼は」「彼らは」という表現のほうがどうしてもしっくりくる。

――彫刻家が素材に生命感を見てしまうのは「彫刻家あるある」かもしれないですね。

吉野:ただ、彫刻家の人って「生命感うんぬん」と言う割に、素材に対してかなり暴力的なふるまいを抵抗感なく行っているところがあるんですよ。じつは僕、木を彫るのが精神的に苦手なんです。生木を彫ると汁が滲み出てくるのですが、人を切って血が出るのと同じような滲み方なんですね。そこがちょっと、つらいし、なんで他の人は全然気にせずにできるんだろう、と常々思っていました。対して、完成した作品に対して「生きているみたい」と言われて喜んでいる彫刻家もいる。そういうところに違和感をおぼえます。

昨今のPC(ポリティカル・コレクトネス)とかハラスメント問題に影響を受けている部分もおそらくあります。たとえば舞台関係でも最近よく聞く話ですが、人としての扱いを受けなかったとか、お給料がちゃんと払われなかったとか……。人と人との関係性に対等性が叫ばれるのは最近当たり前のことになっているけれど、「じゃあ人型の作品は?」「人の姿をしていない作品は?」、もっと想像的な話をすれば、「死んだ人についてはどうなるの?」とか、どんどん問題が広がっていく。この点に関して解決策が僕にあるわけではないのですけれど、問題提起として、人がモノに起こすハラスメントを考えてみてもいいんじゃないか。モノを擬人化すると、ハラスメントや暴力、不平等性がかなり見えやすくなるのではないかと考えています。

バックヤードで語るオフのようなオンのような姿。手前に見えるのは差し入れのお菓子。


――やはり社会的な問題の影響はあるんですね。自分を取り囲む社会や制度との関わり方という点でいうと、吉野さんはオルタナティブスペースの「WALLA」の運営メンバーでもありますね(註4)。他のアーティストとの共同は「自分以外の他人」との関係性を考えるきっかけになると思うのですが、WALLAでの活動はどう捉えていますか?

吉野:WALLAをアーティスト・コレクティブと捉える方もいますが、そうではありません。集団として発言する危険性に警戒している部分が強くあるので。アーティスト同士が互いに個人の活動をサポートする、促進するための場として、アトリエの延長線上にあるものと位置付けています。半分はアトリエですが、1階スペースは元コインランドリーを改装した展示空間です。僕は作品制作の場所は別にあるので、WALLAはイベントや企画をする場所として考えています。過去には「嘔吐学」という企画を2回行いました(註5)。WALLAという名称には「賑やかし、エキストラ」という意味合いがあるのですが、中心ではなくて「埒外で騒いでいる人たち」という運営イメージは他のメンバーとも共有しているので、引き続きWALLAに在籍して活動していきたいです。

前田春日美+吉野俊太郎《Allocentric Room》(2020)


――美術業界って人口も少ないし、ある意味狭いですよね。だからこそ吉野さんが先ほど仰ったようにアーティスト同士のサポートが必要になってくるし、あるときは鑑賞者、あるときは展示者、という風に、個々人が自分の役割を固定せずに場を回していく必要がある。
最近の若い世代には多才な人が増えている印象を受けます。アーティストでありながら、吉野さんみたいに文章も書いたり、キュレーションをこなしたり。複数の職能をこなす人が増えているのではないでしょうか。

吉野:アーティストキュレーションに手を出す方は確かに増えましたね。でも僕は、「嘔吐学」で企画者と名乗っているけれど、キュレーターという立場には身を置きたくない。作家のサポートはするし、必要があれば展示台座を外部業者として制作するし、アーカイブサイトもつくるけど、でもキュレーターとしてその展示を運営するわけではないです。

自分の展示に関しても、「吉野俊太郎個展」という表現がイヤなんですよ。「吉野俊太郎展」ならいいんですけど。協力してくれた方のキャプションはもちろん入れますし、たとえば今回が日原聖子さんとの展示でもあるということに表れているように、自分ひとりの展示を行っています、という変な妄信はしないようにしています。

――かなりめずらしいタイプですね。いまはアーティストとして自分をいかにプレゼンテーションするか、というのが競われている時代だと思います。SNSなど気軽に表現するツールがいくらでもあるし、自分で情報発信できるし、告知もできるし、情報が拡散されてフォロワーがたくさん増えればそれが戦闘力になる、という考え方もある。その状況で、吉野さんは自分をプレゼンテーションする(あるいはプレゼンテーションしない)ことをどう考えていますか? たとえばSNSの使い方などに思うところはありますか?

吉野:「あなたは誰ですか」と聞かれたときに僕も答えづらいんですが……指定された枠をかき乱すようなことはしたいと考えていますね。それと同時に、着ぐるみ的な状態でもあってほしいというか、自我的なものが強調された見え方にはしたくないなと考えています。作品自体が自分の身から離れたところで多くの人に見てもらえることに抵抗はないけれど、「吉野俊太郎があの作品をつくりました」みたいな感じに、アーティストとしての自分がどんどん造形されてしまうのには恐怖心がありますね。僕がいろんな分野に節操なく手を出し過ぎてしまうのも、「彫刻家・吉野俊太郎」という明確なキャリアをつくりたくないからかもしれません。
SNSに関しては……あれはまあ、単なるソーシャル・ネットワーク・サービスなので。主張とかをするつもりはなくて、自分の思考整理と、他のアーティストの展示を見たときに作者に感想を伝達する日常のツールですね。あと、最近はインスタグラムのストーリーに展示の感想を投稿したりしています。

――ある程度読む人の想定ができるレベルで「石を投げている」というイメージ?

吉野:「石を投げている」、その表現いいですね。Twitterだと投げた石を利用されるのがちょっと怖くて。石も、すこし磨いてるときと原石そのままのときとがあるので。どちらで投稿すべきかはすごく考えますね。ただ作品の感想については、僕自身は伝えてほしいし、他の人にも伝わったらいいなと思っています。他の人の作品を言語化するのがすごく好きなんです。

――主体性を強く押し出さないからこそ、吉野さんにはなんでも出来てしまう軽やかさがあるような気がします。
では〆の質問です。今後のヴィジョンを教えてください。

吉野:舞台美術はやりたいですね。何らかのかたちで俳優もやる可能性もあるかもしれません。あと、いまは博士課程に在籍しているので、今後一年のうちに論文を執筆する予定です。自分がなぜ台座を扱っているか、彫刻を専門としながら台座に注目しはじめたのはなぜか、あるいはぬいぐるみや人形と台座の関係性を文章化するつもりです。

福井裕孝『デスクトップ・シアター』(演出:福井裕孝、吉野俊太郎)

僕は研究者という人にすごく憧れがあるんです。「キャリアを決めない」という理想の在り方に研究者が近いのかもしれない。スター的でありつつ、図書館にずっと籠って調査活動したり、何かを示しているようで示していない感じが素敵に思える。もし今後「あなたは誰ですか」と聞かれたら「研究者です」と答えられるようになるのが、いまの流れではいちばんしっくりきます。
論文を発表したあとも制作は続けていくだろうけれど、研究は引き続きやっていきたいです。テキスト……そう、テキストっていいですよね。読むのも書くのも、すごく好きですね。

――吉野さんは一人何役もこなしているかのようですね。「彫刻研究/美術制作」としての活動、文章の執筆、WALLA運営メンバー、それに今後はパフォーマンスや研究をやる可能性も。私の中では複数の吉野さんがいたのですが、もしかしたら影で糸を引いているかもしれない何かのおかげでこうしてお会いできて、ようやく吉野さんのイメージがひとつの身体に収束した気がします。今後もその活躍/暗躍ぶりを見ていきたいです。

(インタビュー終了。時計の針が12時に近づき、ブレイクタイムヘ。展覧会の開場まであと一時間)

人形でバイバイまたね。そして人生はつづく。


(註3)吉野俊太郎ウェブサイト「portfolio」より参照。
https://shntryshn.com/work.html

(註4)WALLAウェブサイト
https://walla.jp/

(註5)嘔吐学vol.1「ユー体、後ケイ」はWALLAにて2020年3月11日~22日に、嘔吐学vol.2「greenery efficacy」は2021年4月16日~25日に開催された。
嘔吐学vol.1:
https://walla.jp/archive/outology-1/
嘔吐学vol.2:
https://walla.jp/archive/outology-2/

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