インタビュー

活動支援生インタビュー Vol.16 MOYAN 「人と人形の共犯関係が創り出す世界を巡って」 個展「PLAY BOOTY」インタビュー

クマ財団では、プロジェクトベースの助成金「活動支援事業」を通じて多種多様な若手クリエイターへの継続支援・応援に努めています。このインタビューシリーズでは、その活動支援生がどんな想いやメッセージを持って創作活動に打ち込んでいるのか。不透明な時代の中でも、実直に向き合う若きクリエイターの姿を伝えます。

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MOYAN

「社会的装置としての人形」をモチーフに絵画作品を制作してきたMOYAN。人形との「ごっこ遊び」を人と人形との共犯関係として捉えて制作された作品を主軸に構成された今回の個展「PLAY BOOTY」は、人形の頭部にフォーカスを当てた前回の個展「Figure Head」をさらに発展させ、人形と空間の関係を描き出すことで、多面的な解釈が導き出される作品世界が展開されている。

インタビュアー・ライター:小林 美香

人形と誰かの共犯関係の間に忍び込みたい

展示会の様子 Photo by Ujin Matsuo

――入り口でお客さんを出迎えるように、人形の頭部をロリポップキャンディーのように棒に突き刺して描いた作品がありますね。

MOYAN私は人形が人型であるがゆえに人のようなものとして扱われる一方で、工業製品のものとしての扱いを受けるという二面性を強調したいと思っていて、人形の頭が透明なプラスチック袋の中に入っている状態で描いているのもそういう理由からです。この作品は「GIVE YOU」というタイトルで、誰かにプレゼントしたいものとして人形を想定しています。ネットオークションやメルカリを通して購入した中古品の人形の頭部をでラッピングして、ワイヤーを結んでチャームをつけています。

「GIVE YOU」シリーズ の展示風景 Photo by Yoshi Nomura

――人形が工業製品として製造され手に渡り、さらに中古品の状態になったものに手を加えて人におくる過程の様態、人にものを贈ることに際して付随するものを描いているのですね。

MOYAN人に対して何かをしたい、ものをあげたい、という気持ちを示す行為の中には、純粋に愛情や美しいものを示す方法である側面のほかに、エゴとか気持ち悪い要素も入ってくることがあると思うんですね。人に向かっていく気持ちをそういうふうに捉えるならば、それは自分にとって「人に人形をあげる」こととして表されるんじゃないかと思ったのです。

――工業製品として大量生産され、袋詰めにされている人形は、モノとして扱われているわけですけれども、一方で個人の所有物として名前を与えられ、愛玩されるという両面もある。そういう異なる扱われかたをする過程に侵入して、描くことでどのように関わり得るのか、また作品を観る側がその過程を想像しながら巻き込まれるようにすることを試みているのですね。

MOYAN今回の展覧会のタイトル「PLAY BOOTY」は「仲間と策謀して悪い事をする」という意味なのですが、人形と誰かの共犯関係の間に、自分がすーっと忍び込んでいけるかということを考えていますね。

――背景にとても鮮やかな色を使っていますが、それはどうしてですか?

MOYANある時から、ものを描写することよりも、絵として強いものを描きたいという方向に関心が変わってきたことがあります。私は展覧会の開催が決まってから絵を描き始めるのですが、展示した時の作品の色のバランスを意識して決めていることが多いですね。そのことも色の選び方に反映されています。

――使い古しの人形の頭部を描いた作品がありますね。顔の表面の描写が克明で目を惹きます。

MOYANこれは高校の友人が子どもの頃に100均で買って遊んでいた人形を譲り受けて描いたものです。元から顔の造作が粗雑だったのに加えて、使い古して塗料が剥がれて肌がドロッとした感じに汚れていて、その表面の質感をスケッチして、さらに油絵として描きました。この作品「The Doll」と対になるような関係で、金髪のバービー人形をぼやけたアイコンとして描いた「The Image」という作品があります。

展示会の様子 右手に映るのが「The Doll」Photo by Yoshi Nomura

――人間の似姿(イメージ)として作られる人形(ドール)というものとしての在り方を、どちらも油絵という絵画として併置して示しているのですね。イメージとしてのドールと、ドールとしてのイメージの関係、平面と立体物の入れ子的な参照関係を示唆していて面白いですね。
男の子の人形の首だけを描いた小型の作品がありますが、女の子の首ほどには生々しさを感じさせませんね。イメージとして存在しているというか、生身のものとしての感触が薄い感じがします。

インタビューの様子 Photo by Yoshi Nomura

MOYANこの作品は、リカちゃん人形のボーイフレンド役の人形を描いたものです。作品制作の過程でリカちゃん人形シリーズの中の人形を一通り触ってきたのですが、お母さん人形のような存在に比べて、彼氏、お父さんの役の人形は付属物、おまけ感が強いですね。人形の構造を比べてみても、リカちゃんほどには身体の部位が動かないようにできています。

――男の子人形の存在は、人形遊びの仕方にも関係してくるかもしれませんね。着せ替えを楽しむことに加えて、家族や人間関係をシミュレーションしてロールプレイをする段階になって男の子人形が登場するわけですから。

「Candy Pot」シリーズの作品では、器の中に人形の頭が入っていますが、この器は何でしょうか?ジュースミキサーやお菓子のベンダーのようにも見えますが、表面に缶詰やスープのシールが貼ってあって、ちぐはぐな感じがします。

MOYAN作品を制作する過程で人形のパーツを収納するものが必要になって、どうせだったら見せられる形のものにしたいと思い、100均で買ったパーツを組み合わせて器を作っています。キャンディ・ポットをイメージしていますが、形としてはいくつかの装置を混ぜ合わせて出来上がっています。

――器の形と人形が入っていること、食べ物を描きたステッカーが貼ってあることから、ほんの一瞬ですが、会田誠さんの作品《ジューサーミキサー》(2001)を連想し、器の中の人形が撹拌されてドロドロにされてしまう暴力的な装置を少しだけ想起しました。キャンディ・ポットという器は人形が存在する空間を示していて、人形になんらかの現象が起きることやその過程を描いていると言えますね。隣の大型作品も、正面を向いた黒人の赤ちゃん人形の大きな眼と背景の紫色が強烈で、人形のいる空間のあり方を印象づけます。正方形という画面の形も相まって、人形のものとして形が強められているようにも見えます。

人形のいる空間と想像の世界のスケール感

展示会の様子 左手に「Co-Sleeping」右手に「Candy Pot」シリーズ  Photo by Yoshi Nomura

MOYANこの作品「Co-Sleeping」は、子どもが人形で遊ぶ場面、赤ちゃん人形とリカちゃん人形という大きさの違う人形と一緒に添い寝をする子どもの視線を想定して描いています。正方形は自分の中でしっくりくるので画角としてよく使いますが、インスタグラムなどの画面の形も影響しているかもしれません。

――スケール感の食い違うものが並存する空間は、概念的な空間、頭の中で展開する出来事を差し出して見せる空間を連想させますね。ディズニー・ピクサー映画で『インサイド・ヘッド』(2015)のように子どもが成長する過程で体験する感情の要素をキャラクター化して描いた作品や、『ズートピア』(2016)のように大きさの異なる動物たちが活躍する架空の街を描いた作品がありますが、このような映画作品が描く脳内の世界や、異なるスケール感覚がチグハグに入り混じった空間は子どもが成長し遊びを通して体験する空間であることを思い出しました。MOYANさんの作品は、人形の存在を通して、想像の世界のスケール感をトレースするような側面もあるのではないでしょうか。2, 3歳ぐらいの幼児が赤ちゃん人形を使って子どものお世話を模倣し、その後成長する過程でリカちゃん人形のようなファッションドールを使って、自分よりも年上の人の振る舞いをシミュレーションして遊ぶわけですから、スケール感だけではなく、人形によって設定されるロールプレイのあり方の入り混じり方が作品の中で空間描写に反映されているのが興味深いです。

MOYANこの作品「”HI”」は展覧会のDMにも使ったもので、バービー人形のケンが自分の頭部を身体から外して手に持ってお辞儀をして、ドールハウスの中にいる赤ちゃん人形に挨拶をしている場面を描いています。2年前の個展「ドル・プレイ」(un petit garage 2020年)でもドールハウスをモチーフにした作品を発表したのですが、当時はコロナ禍で家の中に引き籠って過ごす時間がとても長くなって、自分が今いる空間について強く意識させられていた時期だったんです。それで、ドールハウスを自分で組み立てたり、その中に人形を置いて、その風景を描くというところから作品制作が始まっています。対面する柱にかけた作品「After a walk」も、同じドールハウスを使って描いています。

インタビューの様子 右手に映る作品「”HI”」は展覧会のDMにも使用された Photo by Yoshi Nomura

――ドールハウスの空間的な構造や壁、家具が入ることで空間の描写がより具体的になっていますね。また、トレイのようなドールハウスの内側と外側を仕切る囲いや境界、それぞれの背景の強烈な色彩が印象に残ります。鮮やかな色彩が描かれている世界と現実の世界の間の結界を表して、「私の意識の空間は、私だけのもの」と主張しているかのようです。また、空間描写が具体的になることで、人形同士のスケールの食い違いがより際立って見えますね。

MOYANドールハウスの囲いや境界は、人形が存在する空間の設定の違いを表しているところもあります。たとえば、私がある人に会いに行くときに、その人は私が相手に会うその空間の中にしか存在しないのではないか、私がその空間を出るとその人は存在しないのではないかといった、私の中の勝手な想像が膨らむようなことがあって、そういう空間の断絶感みたいなものを設定した上で人形を配置しているようなところがあります。

――発達心理学の用語で「スケールエラー」という言葉があるのですが、それは子どもが玩具で遊んでいる時に、極端に小さな対象に無理やり自分の体や道具を当てはめようとする行動を指します。自分のいる世界とドールハウスのような玩具の世界のスケールが意識の中で噛み合わなくなるような状態が起きるのでしょうね。ドールハウスの中での人形の奇妙な動作(頭を外して挨拶をするケンとか、開いた扉を通して頭から家に入ろうとするバービー)はそのような噛み合わないエラー的な現象の表れを描いたようにも見えます。人形と空間のスケールの噛み合わなさ、背景の鮮明な色彩はいずれも、作品の世界と現実の世界との間の断絶感を際立たせていると感じます。この現実世界とは地続きではない感覚、二つの世界の間にある明確な隔たりを示すことが大事なのでしょうか?

MOYANそうですね、「私の意識の空間は、私だけのもの」という感覚が大事で、自分の作品について訊かれる時にも、そういう空間との距離感は破られたくないと思っています。また、スケール感の違うものを組み合わせることによって、作品の中にバグのようなものを発生させることを試みていますね。ハウスの中の事物や情景を描きつつ、自分の意識の中の空間を描くということをしていて、人形の奇妙な動作はそこに明確な筋書きのようなものが設定されているわけではないのですが、見る人を混乱させて、人形との共犯関係に巻き込んでいくようなしかけになっています。
私は作品制作に通底するテーマとして、人形とジェンダーの関係を扱ってきたのですが、作品が受容される過程の中で、作品を鑑賞する人の関心が、作品ではなくて作者である私に対して向けられることがあるのを怖いと感じていて、自分が望む距離感を保つために、鑑賞者と自分の間に人形を差し出している感じがあります。

自分自身の解像度を上げること

――人形という存在は、人の体験や想い出を結びつけられやすいものですから、自分の感情を人形という対象に投影する鑑賞者も多くいるでしょうね。その感情が距離感を犯して、作品ではなく作者に投影されて向けられるが怖く感じるというのは理解できます。お話を伺っていると「装い」にもそのような側面があるのでは、とも感じます。人が装う時、その人の身体や生活の延長上にあって、人となりを反映する「装い」の選び方もありますが、舞台衣装やコスプレのように装うことが、人前に偶さかに姿を差し出して、演じるための手段になる場合もあるわけですよね。子どもが人形で遊び、人形に装わせるということは、そのような「装い」の社会的な機能を学んでいくプロセスでもあるわけで、MOYANさんの作品はそのプロセスを分析しながら振り返って、そのプロセスから逸れたり、ずらしたりしながら、作品世界を構築していくところがあるように思います。

MOYANジェンダーをテーマに作品を制作している人の中には、自認するジェンダーやセクシュアリティを隠さずに表現し、当事者性を全面的に打ち出している人もいて、それは堂々とした態度に私の目には映るのですが、私はあからさまに表現することには向かっていないですね。自分のあり方を表明するときに、人によって認識やリアクションに差があることや、「あなたはこういう人なのね」と他人から決めつけられたり、判断を下されたりすることへの恐れが強いのだと思います。

―― MOYANさんの作品は、自らのあり方を、本質として他者に差し出して見せるというよりも、MOYANさんの意識のあり方、認識の構造を示して見せているような側面があると感じます。人形の存在やそれらが置かれて役割を設定される空間を描くことによって、ものとしての人形への介入の仕方、描くという行為をしていることを示しているのですね。

MOYANそうですね。私にとっては描くという手法、絵画というメディアであることが自分自身の身体感覚にフィットしていて、ほかの手段や、写真や映像というメディアを用いるのは違うと思っています。

展示会の様子 Photo by Ujin Matsuo

――冒頭の方で、人間の似姿(イメージ)として作られる人形(ドール)というものとしての在り方の関係を並置するような形で表した「The Doll」と「The Image」という作品のことを紹介しましたが、これらの作品が成り立つのも、描くという行為、アクリルガッシュや油彩絵具というマチエールがあってのことですね。「The Doll」では、リカちゃん人形的な日本のファッションドールの造形、若干タレ目で頰がふっくらとした幼さを残した、どちらかというと平面的な顔立ちが表されていますが、「The Image」のバービー人形の顔立ちは立体的で鋭角的で大人っぽい感じ、人形を通して志向されている女性像が表されていますね。「The Doll」を見て、それを「人形らしい」と感じるのは、私が日本でリカちゃん人形的な造形、それを「可愛らしいもの」とする価値観に馴染んで育ってきたからなのかもしれません。「人形のように可愛らしい」という表現の仕方がありますが、その「人形のような」という形容の仕方を使うにしても、文化が違うとその中身は変わってきますよね。

MOYAN確かに、人形の造形から透けて見えてくる文化的な価値観というのはありますね。人形はその文化の「好ましい・可愛い価値観」の原型を作って、子どもに教え込んでいく側面はあると思います。私が人形を描いているのは、人形を愛好する、可愛らしいと思う感情からではなくて、ものとして存在するそのあり方への関心からなんです。

―― MOYANさんは、そういった価値観、つまりここでは「可愛いもの」にそのまま感情移入していくのではなく、「世の中で可愛いとされているもの」に人の情動が働く仕組みに関心があって、その感情作動の仕方に俯瞰的な視線を向けているところがあると思います。だから、人形の様態のみならず、それらの置かれる空間や状況の設定を微細に描くことができるのでしょうね。そういう意味では、作品制作のあり方が、精神分析的な側面を具えているとも言えるかもしれませんね。

MOYANそうですね、作品を制作する中で自分の根幹としてあるのは、他者に対する理解の前に自分自身の解像度を上げるということなんです。誰にも語り難い自分だけの経験や出来事を語れる自分だけの時空間が欲しいと思っていて、属性というバイアスを通してではなく、自分個人としての歴史と特徴として捉えて欲しいと思っています。

インタビューの様子 Photo by Yoshi Nomura

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